我父亲 堺利彦

我父亲

堺利彦

我记忆中的父亲已经五十岁了。头发好像已经有些稀疏了。“什么嘛,心情一点也没变啊”,有时还会说些年轻的话,但在我眼里,他已经是个老人了。名叫堺得司。

父亲脸上有很多痘疮的痕迹。这就是所谓的“蛇眼”。但他的长相很普通,甚至可以说是很有品位的人。身材矮小,身材瘦削。作为武士的爱好,柔术比剑术更多。弓似乎也拉了一些。患有哮喘,卧床很长时间,上了年纪就好了。由于这种体质,他不太需要力气,但天生手巧,经常模仿木匠。木工工具一应俱全,吊架子、搭凉棚之类的活儿,不用借助人手就能干得很好。

他是个没有学问的人,大概会朗读四书,但从来不谈汉学或国学之类的话题。只是他对俳谐十分热衷,后来被允许从事俳谐工作,成为有竹庵眠云宗师。有时还特意从东京买来《风俗文选门前》之类的书,修改几句俳句。他相当喜欢下棋,也会插花。我自然也继承了这三种爱好。花也不是什么特别的继承,只是听说过“远州流好像有点太做作了,真讨厌。我的池坊流派不要太做作就好了”之类的话。这多少也成为我处世上的教训。关于围棋有一件奇怪的事情。棋盘第一次搬进我家的时候,父亲说那是别人寄放的东西。但不知从何时起,我们就知道那绝不是寄存物。我想,父亲不会给我们买自己喜欢的书,所以也不愿意把钱花在自己的娱乐上。但是,我对此并没有说什么,反而对父亲的客气抱有好感。

父亲的俳句中有这样一句:“骤雨来了,泥土的味道如何?”这些都是丰津生活的实景,第一次听到时,连小孩子都觉得哈哈。丰津的原野上经常下阵雨。大热天的午后,每天照例来一趟,真叫人心旷神怡。骤雨来了,大颗的东西啪啦啪啦地拍打地面时,凉气嗖地袭来,同时泥土的臭味扑哧扑哧地扑鼻而来。“用簪子的腿量雪的大小”,在我幼小的心灵中并不是什么特别艳丽的景色,只是眼前的实景。还记得“百余好友赏花”、“油菜花问昔日海上”、“放眼春笛柳原”等诗句。从系统上说,他属于美浓派或支考派。但是父亲的主张是“我喜欢摘的句子”,摘的意思是奇特。顺便说一下,不久之后,有一次我被父亲骂了一句俳句。“看看我脸上的皱纹吧,岁末”,这着实让我吃了一惊。

这也是后来我第一次看到古人的“明月和席上的松影”的句子时,原来如此啊,我在心里拍手叫好。丰津家曾经有过这样的景色。而且这种时候,熄了火躺在月影间的趣味,自然是从父亲那里培养出来的。

但父亲最擅长的是种菜。如今,当我怀念我少年时代父亲的身影时,不是坐在被炉里,就是摆弄田地。尤其是那只兜裆布,前裆呈三角形,一丝不挂地站在菜园里的身影,至今仍浮现在我眼前。父亲经常和一个叫小六的年轻农民打交道,小六每五天来一次。萝卜、樱岛、芜菜、朝鲜芋、野芋、豌豆、唐豆、小豆、豇豆、大豆、菜豆,什么都有。茄子、南瓜、胡萝卜、牛蒡、瓜、黄瓜等本来就有。有款冬,有蘘荷,有玉米,有葱,有莴苣,有藠头。

尤其是西瓜,是父亲的骄傲。我经常跟在父亲屁股后面去检查那又大又圆的家伙,有时蓝色,有时白色,在早晨的田地里滚来滚去,带着露水。从幼苗时期、花落时期开始,我就煞费苦心地培育它,它一天天长大,终于长到贯目以上了,也难怪父亲会高兴地破颜微笑。我从捉虫开始就当父亲的助手,多少也有分享成功荣耀的权利。捉虫的时候,把黏土用水弄成黏糊糊的东西放进碗里,发现粘在叶底或嫩芽上的黑色小虫,就用沾有黏糊糊的筷子轻轻地把它们夹起来,不碰到秧苗。花落的时候,会在木桩上立个牌子,记下它的日期,大概有几天,我忘了,大概到了成熟的日子,父亲会歪着头用指甲弹弹看。发出咚咚咚咚的声音还早了点。每天一边说着“已经是后天了吧”,一边弹奏的时候,有一点啪嗒啪嗒的声音,说已经关上了,就把它撕下来。大多数情况下,我的主张都会根据父亲的意见拖延一两天。接下来就麻烦了,吃那个的日期不容易决定。明天也好,后天也好,每天都吃不好之类的父母的意见,总是阻止我们的即时断行说。等到日期终于定下来,那天早晨或前一天晚上,就用细绳把西瓜绑起来放在井里。到了下午,我们从学校回来,把那个凉透了的西瓜从井里提出来,先用母亲的菜刀切成两半。随着“呼、呼”的声音,菜刀刺进西瓜的身体时,我们屏住呼吸偷看,想尽快弄清它到底是不是红的。“哦!好红啊!”母亲首先发出希望的呼声。不久,当它的身体被切成两个半球时,“嗬!真漂亮!”父亲高兴地发出感叹的声音。其中,半球又被分成两半,哗啦哗啦,红色的山形不断被切开。我们什么也没说,劈头就咬。唯一令我不满的是,父母煞费苦心地为我填饱肚子,却一次也没有让我尽情地吃。

关于西瓜有一个奇怪的故事。隔壁——其实也就是沿着后面松山之间的小路走了二十多米远的地方——那个叫中村的人家,不知道为什么不种西瓜。“那边的媳妇姑娘很喜欢吃西瓜,一次也不吃,真可怜。”有一天切西瓜的时候,妈妈把那个媳妇姑娘叫来了。媳妇高兴得吃了个精光。可是,那个儿媳正好临盆,那天晚上突然要生了。我心里很担心。会不会是被西瓜打中了?如果真是这样,那就太抱歉了。不做多余的事就好了!尤其是母亲,总是心不在焉地吵闹着。幸好分娩平安无事,生了个好女孩,西瓜反而立功了。

父亲不仅种植蔬菜,还在宅邸内建造竹林、增加果树、种植花卉、接穗等,制定并实施各种计划。还有一些茶树。也做过少量香烟。也有莲花池的计划,但没有实现。珍贵的东西有甜茶树、三岔树等。桑树的事将在后面记载。

父亲喜欢抽烟,也喜欢喝酒。晚上小酌一杯,用豆酱包住豆沙叶,大口吃着,小口小口地喝下去,似乎是他最大的乐趣。到了没有菜下饭下酒菜的时候,父亲就会在鳕鱼贝之类的东西里加些腌菜,再撒一点鲣鱼干煮,这是父亲的发明,称之为“煮茎煮菜”。他打趣地说:“就算是普通的酱菜,这样煮的话大家都很喜欢,这不是煮茎,而是喜欢煮。”

父亲是个循规蹈矩的人,是个正直的人,是个规规矩矩、小心谨慎的人。多数情况下,他是个心情很好的人,但偶尔也会很不高兴。有一次,我因为一件意外的事被骂了。看到一个比我大两岁、家境稍微富裕的朋友作诗,我也想学,好像说想买一本关于他的杂志什么的。不要再见面了,被狠狠地训斥了一顿。对我来说,如果他说我没钱不能给他买,我也不会有丝毫不满,但他让我不要和朋友来往,让我愤愤不平。后来,父亲去东京找哥哥,给他买了一本《作诗自在》的小书。我也忘了是不是那件事的延续,当时父亲狠狠地扇了我一巴掌。也许是因为我说了些很难听的话吧,我懊悔不已,哭了很久。这种不愉快的感觉一辈子都残留着。

另外,我对父亲也有这种滑稽的不满。我喜欢狗,路上遇到狗,就吹口哨,摸摸它的头,和它成了好朋友。最后,把她带回家。但是,对于好不容易跟到家里来的家伙,我却没有任何可爱之处。我痛苦得无法忍受那些。我想让他吃一片年糕,吃一团米饭。但这被父亲禁止了。他说,如果养成这种习惯,那只狗总有一天会变成家里的狗,那就麻烦了。对于贫困士族的生活来说,吃一条狗的钱肯定也是个问题。所以我当然也不会说要养狗。也不一定每次都要一起吃饭。于是我和父亲协定,有狗客人来的时候,只给一把米糠。然而,父亲对此也不太高兴。想来,父亲并不是舍不得糠一,而是担心我这种耽溺于狗爱的性情吧。不过,父亲也会对每晚吃饭时一定会来的邻居家的狗喊黑、黑,扔沙丁鱼头什么的。

但我也深深感到父亲的慷慨。有一次,东京的亲戚给我家送来了一盒名叫“鹤子”的点心。只吃一个的时候,好吃得不得了。之后也很想要,却怎么也得不到。父亲说,那么好的东西怎么能随便吃呢,就把它放到了房间的高架子上。不知道过了几天,父母都不知道去了哪里,我一个人在家。突然起了歹意,拿来脚凳,拿起架子上的鹤子。当然只有一个。我窥视着会不会败露,但谁也没说什么。就在这时,又有机会拿了一个。最后拿了三个,拿了四个,拿了五个。不可能不露馅了。再怎么老糊涂,也不可能注意不到缺了五个。我心想糟了、糟了,可又过了好几天,谁也没说什么。结果,这件事就到此为止了,我认为老年人是相当愚蠢的人。直到很久以后,我才意识到自己的浅薄,现在才冷汗直流,那是父母都去世之后的事了。

还有一次,我从父亲桌子的抽屉里偷过一日元纸币。那时的1日元至少值现在的10日元。作为一个孩子,这是一大笔钱。我立刻拿着它上街,在一家叫新店的店里买了很多唐纸和白纸。最多也就五钱或十钱吧。因为没有钓到鱼,所以没付钱就回去了。之所以买唐纸和白纸,是因为当时正在模仿一些文人风格的书画。然而两三天后的某一天,母亲带着我在宅邸内散步。直觉告诉我母亲有什么话想对我说。我变得非常害怕。但母亲的态度比平时柔和多了。走到竹林一侧的梨树下时,母亲终于开口了。“利敏小姐,你该不会——”我心想,来了。但是母亲非常温柔,非常客气地反复说着“也许”“也许”,说那样的话那也没办法,我绝不责骂你,总之老老实实地把它拿出来吧。我感到非常惭愧,立刻脱下头盔。父亲对此始终一言不发。

顺便把我偷的东西写下来。那时,我在锦町的一家小杂货店里,假装在旁边玩,偷了一个带柄的小放大镜。通过它看东西,无论什么东西看起来都那么大,有趣得不得了。但我既不能炫耀给朋友看,也不能一起开心,这一点非常遗憾。与此同时,心中也涌起一股害怕事情败露的恐怖感。这样一来,光是拥有它就已经很辛苦了,每天都在担心该怎么办。我决心干脆拿去原处归还。但要在不被发现的情况下归还,又很不容易。幸运的是,有一天我把放大镜弄丢了。发现它掉了的时候,我真的松了一口气,放下心来。

私の父

堺利彦

 私の覚えている父は既に五十であった。髪の毛などは既にやや薄くなっていたように思う。「何さよ気分に変りは無いのじゃがなア」などと、若やいだようなことを言うていることもあったが、何しろ私の目には既に老人であった。名は堺得司とくじ。

 父の顔にはかなり多く疱瘡ほうそうの跡があった。いわゆるジャモクエであった。しかしその顔立ちは尋常で、むしろ品のよい方であった。体格は小柄で、しかも痩せぎすであった。サムライのたしなみとしては、剣術よりも多く柔術をやったらしい。弓も少しは引いたらしい。喘息持ちでずいぶん永く寝ていることもあったが、ズット年を取ってからは直っていた。そういう体質上、力わざはあまりしなかったが、元来が器用なたちで、よく大工の真似をやっていた。大工道具はすっかり揃っていて、棚を釣る、ひさしを拵えるくらいのことは、人手を借らずにズンズンやっていた。

 学問はない方の人で、四書の素読くらいはやったのだろうが、ついぞ漢学なり国学なりの話をしたことがなかった。ただ俳諧は大ぶん熱心で、後には立机りっきを許されて有竹庵眠雲みんうん宗匠になっていた。『風俗文選もんぜん』などいう本をわざわざ東京から取寄せて、幾らか俳文をひねくったりしたこともあった。碁もかなり好きだし、花もちょっと活けていた。私も自然、その三つの趣味を受けついでいる。花の方は、別だん受けついだというほどでもないが、「遠州流はどうもちっと拵えすぎたようで厭じゃ。俺の流儀の池の坊の方がわざとらしゅう無のうてええ」というくらいの話を聞いている。そういうことは多少、私の処世上の教訓にもなったような気がする。碁について一つおかしいことがある。初めて私の家に碁盤が運びこまれた時、父はそれを余所よそからの預かり物だと言っていた。しかし私らは、いつの頃からか、決してそれが預かり物でないことを知っていた。思うに父は、私らに対して、望むだけの本など買ってやらないのだから、自分の娯楽のために金を費すことを遠慮したのだろう。しかし私は、それについて何も言ったことはないし、ただむしろ父の遠慮に対して好い感情を持っていた。

 父の俳句に「夕立の来はなに土の臭ひかな」というのがある。これなどは豊津の生活の実景で、初めてそれを聞いた時、子供心にもハハアと思った。豊津の原にはよく夕立が来た。暑い日の午後、毎日のように極きまってサーッとやって来るのが、いかにもいい気持だった。そしてその夕立の来はなに、大粒の奴がパラ/\パラ/\と地面を打つ時、涼気がスウーッと催して来ると同時に、プーンと土の臭いが我々の鼻を撲うつのであった。「かんざしの脚あしではかるや雪の寸」などというのも、私の子供心には別だん艶えんな景色とも思わず、ただ眼前の実景と感じていた。「百までも此の友達で花見たし」「菜の花や昔を問へば海の上」「目に立ちて春のふえるや柳原」などいうのも覚えている。系統としては美濃派だとか、支考派だとか言っていた。しかし父の主張としては、「俺はもげた句が好きじゃ」と言っていた、もげたとは奇抜を意味する。ついでに少し後のことだが、私はある時、父から俳句で叱られた。「我が顔の皺を見て置け年の暮」これには実際ギクリと参った。

 これも後に、「明月や畳の上の松の影」という古人の句を初めて見た時、なるほどハハアと、私は心の中で手を打った。曾てその通りの景色が豊津の家にあった。そしてそんな時、火を消してその月影の間に寝ころぶと言ったような趣味を、自然に父から養われていたのであった。

 しかし父の最も得意とするところは、野菜つくりであった。私が今、私の少年時代における父の姿をしのぶ時、それは炬燵こたつにあたっている姿か、さもなくば畑いじりの姿である。ことに、越中褌一つで、その前ごをキチンと三角にして、すっぱだかで菜園の中に立っている姿が、今も私の目の前に浮ぶ。五日に一度くらい働きにくる小六という若い百姓男を相手にして、父はあらゆる野菜物を作っていた。大根、桜島、蕪菜、朝鮮芋(さつま芋)、荒苧あらお(里芋)、豌豆えんどう、唐豆(そら豆)、あずき、ささげ、大豆、なた豆、何でもあった。茄子なす、ぼうぶら(かぼちゃ)、人参、牛蒡ごぼう、瓜、黄瓜など、もとよりあった。蕗ふきもあり、みょうがもあり、唐黍とうきび(唐もろこし)もあり、葱もあり、ちしゃもあり、らっきょもあった。

 ことに西瓜は父の誇りであった。あの大きな丸い奴が、あるいは青く、あるいは白く、朝の畑に露を帯びて転がっているのを、私はよく父の尻について検分に廻ったものだ。苗の時から、花落ちの時から、いろいろ苦心して育てた奴が、一日一日に膨大して、とうとうここまで、一貫目以上もあろうというところまで大きくなったのだから、父が上機嫌で破顔微笑するのも無理はない。私としても、虫取りの時から父の助手を勤めているのだから、幾分か成功の光栄を分有する権利があるわけであった。虫取りの時には、粘土を水でネバネバにした奴を茶碗に入れておいて、葉裏や若芽にとまっている黒い小さい虫を見つけては、そのネバネバを附けた箸の先で、ソット苗にさわらないようにして取るのだった。それから花落ちの時には、ツケギで立札をして、その月日を記しておくのだから、およそ何日間であったか、それは忘れたけれども、大体成熟の日取りになって、父が小首を傾けながら爪の先で弾はじいて見る。コンコンカンカンというような響きの出る間は、まだ少し早い。「もうアサッテかシアサッテじゃろう」と言いながら、毎日弾いている中、少しボトボトという音がして来る、サアもうしめたというので、それをちぎる。大抵の場合、私の主張は父の意見に依って一日二日延ばされるのであった。さてそれからが大変で、それを食う日時が容易に決定されない。アシタにせよとか、アサッテにせよとか、毎日食うては悪いとかいう親たちの意見に依ってとかく私らの即時断行説が阻止される。それからいよいよ日時が決定されると、その日の早朝、あるいは前夜、その西瓜を細引でしばって井いどにつける。午後になって、私らが学校から戻って来ると、その冷えきった西瓜が井いどから引上げられて、まず母の庖刀で真二つに切られる。グウ、グウという音がして、庖刀が西瓜の胴体に食いこんで行く時、果してそれの赤いか否か一刻も早く見究みきわめようとして、私らが息を殺して覗のぞきこむ。「オ! 赤いぞな!」と母がまず希望の叫びを揚げる。やがてグウグウ、ザクザクと、その胴体が二個の半球に切り割かれた時、「ほう! 見事じゃのう!」と父がサモ嬉しそうな感嘆の声を発する。その中、半球がさらに二つに割かれて、ザクリ、ザクリ、赤い山形が続々と切り出される。私らは物をも言わずに、いきなりそれにかじりつくのであった。ただ一つ私の不満で堪らないのは、父母が馬鹿に念を入れた、腹下しの用心からして、ついぞ一度も、思う存分、食わせてくれなかったことである。

 西瓜について一つおかしい話がある。お隣り――と言っても、裏の松山の間の小道を二十間けんばかりも行った処だが――そのお隣りの中村という家では、どういうものか西瓜を作らない。「あそこの嫁嬢よめじょうは西瓜が大好きじゃちゅうのに一度も食べんで気の毒じゃ」と言うので、ある日の西瓜切りの時、母がその嫁嬢を呼んで来た。嫁嬢は大喜びで散々食べて行った。ところが、その嫁嬢、ちょうど臨月であったのだが、その晩、急に産気がついた。サア私の内では大心配をした。西瓜が当ったのではあるまいか。もしかそうだとすると申しわけがない。余計のことをせねばよかった! ことに母は、気が気でなく騒いでいた。しかしお産は幸いに無事で、好い女の子が生れたので、西瓜は却って手柄をした。

 父はまた、野菜作りばかりでなく、屋敷内に竹林を作り、果樹をふやし、花物を植えつけ、接穂つぎほをするなど、いろいろ計画を立てて実行した。茶の木も少しあった。煙草の少し作られたこともあった。蓮池の計画もあったが、これは実現されなかった。珍しい物としては、甘茶の木だの、三叉みつまたの木などがあった。桑の木のことは、後に記す。

 父は煙草も好き、酒も好きだった。晩酌の一合ばかりを、ちしゃの葉に味噌をくるんで頬ばったりしながら、ちびちびやるのがよほどの楽しみであったらしい。いよいよ飯の菜や酒の肴さかなのない時には、いたら貝か何かに菜漬を入れて、鰹節を少し振りかけて煮るのが父の発明で、それを「煮茎にぐき」と呼んでいた。「ただの香物こうのものでも、こうして煮ると皆が好すくけえ、これは煮茎じゃのうて煮ずきじゃ」などと言って面白がっていた。

 父は律義りちぎな人であり、正直な人であり、キチンとした、小心の人であった。そして多くの場合、機嫌のよい人であったが、どうかするとかなり不機嫌の時もあった。私としては、ある時、意外なことで叱られたことがある。それは私より二つばかり年上の、少し裕福な家の友達が詩を作っているのを見て、私も真似したくなって、たしかそれに関する雑誌が買いたいとか何とか言いだしたところが、そんなことを見習うほどなら、あんな友達とつきあうのをやめてしまえと、さんざんにきめつけられた。私としては、金がないから買ってやれぬと言われるのなら、少しも不平など起さぬつもりであったが、友達とつきあうなと言われたのが不平で堪らなかった。しかし父はその後、東京に行っている兄の処に言ってやって、『作詩自在』という小さい本を取寄せてくれた。私はまた、その事件のつづきであったかどうかは忘れたが、その頃、父から横面を平手で烈しくぶたれたことがある。私がよほど悪あくたれたことでも言ったからであろうが、私としては、悔しくて悔しくて、ずいぶん永いあいだ泣いたように思う。そして一生涯、その不愉快の感じが幾らか残っていた。

 また、私は父に対してこういう滑稽な不平も持っていた。私は犬が好きで、途中で犬に会うと、口笛を吹いてやったり、頭を撫でてやったりして、仲好しになってしまう。そして結局、内まで連れて帰って来る。ところが、せっかく内までついて来た奴に対して、何らの愛嬌をすることが私に出来ない。私はそれらが堪らんほどつらい。私としては、餅の一片きれなり、飯の一塊まりなり食わせてやりたい。しかしそれは父から禁じられていた。そんな癖をつけると、いつかその犬が内の犬になってしもうて困る、と言うのであった。貧乏士族の生活としては、犬一疋ぴきの食い料も問題であったに相違ない。だから私も勿論、犬を飼おうとは言わない。また必ずしも毎度飯をやろうとは言わない。そこで私は父と協定して、犬のお客のあった時には糠ぬかを一にぎりだけやることにしていた。ところが、それすらも父はあまり喜ばなかった。思うに父は、糠一にぎりを惜しんだわけではなく、犬の愛に溺れそうな傾きのある私の性情を危ぶんだのだろう。しかし父も、毎晩の食事時に必ずやって来る習慣になっていた隣家の犬に対しては、黒、黒と言って、鰯の頭など投げやっていた。

 しかし私はまた、深く父の寛大に感じていることがある。ある時、私の家に東京の親類から「鶴の子」という結構な菓子の箱が送られて来た。一つだけ貰って食った時、おそろしくうまかった。その後も欲しくて堪らないが、なかなか貰えない。あんな結構な物をムザムザ食うものではないと言って、父はそれを部屋の高い棚に上げてしまった。それから幾日たった後のことか知らんが、父も母もどこかに行って、私ひとり内にいた。フト悪心を起して、踏台を持って来て棚の上の鶴の子を取った。勿論たった一つだった。露見するかどうかと窺うかがっていたが、誰も何とも言わない。そうこうする中に、また機会があって一つ取った。とうとう三つ取り、四つ取り、五つ取った。もういよいよ露見しないはずがない。幾ら年寄りがぼんやりでも、五つも不足してるのに気のつかんはずがない。困った、困ったと思いながら、また幾日も幾日も過ぎたが遂に誰も何とも言わなかった。結局、そのことはそれきりで、年寄りなどという者は随分馬鹿な者だくらいに考えていた。そして、ズット後になって、私が自分の浅はかさに思い当って、今さら冷たい汗を流したのは、父も母も亡くなってしまってからのことだった。

 今一つ、私は父の机の抽出しから一円紙幣を盗んだことがある。その頃の一円は少なくとも今の十円の値打ちがあった。子供としては大金であった。私はすぐにそれを持って町に行き、新店しんみせという店で、唐紙とうしと白紙をたくさん買った。たくさんと言っても五銭か十銭かだったろう。そして釣がないからと言うので、代は払わずに帰った。唐紙と白紙を買ったのは、その頃、少し文人風の書画の真似をやりかけていたからであった。ところが二、三日後のある日、母が私を連れて屋敷内を歩いていた。何か母が私に言いたいことがあるのだと直感された。私は非常におそろしくなった。しかし母の態度は平生よりも柔やさしかった。竹藪の片わきの、梨の木の下に来た時、母はいよいよ口を切った。「利としさん、ひょっとお前は――」サア来たと私は思った。しかし母は非常に柔しく、非常に遠慮がちに「ひょっと」「ひょっと」を繰返して、そうならそうで仕方がない、決して叱りはせぬから、とにかく素直にそれを出してくれと言った。私は非常な慚愧ざんきを感じて、一も二もなく兜かぶとをぬいだ。父はそれについて、遂に一言も言わなかった。

 ついでに今一つ私の盗みを書きつけておく。その頃、錦町にしきまちのある小間物店で、私は人のそばで遊んでいるようなふりをして、柄のついた小さい虫眼鏡を一つ盗み取った。それを通して物を見ると、何でも素晴らしく大きく見えたので、面白くて仕様がなかった。しかしそれを友達に見せて自慢することも、一緒に面白がることも出来ないのが、非常に残念だった。同時に、もしか露見しやせぬかという恐怖が盛んに起って来た。もうそうなると、ただそれを持ってることだけが大変な苦労で、毎日毎日どうしたものかと心配していた。いっそ元の処に持って行って返そうと決心した。しかし気がつかれないように返すということがまた大変だった。そうこうする中、幸いなことには、ある日どこかでその虫眼鏡を落してしまった。それを落したと気がついた時、私は実にホッとして安心した。

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来源:TechFM
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