自然 丰岛与志雄

自然

丰岛与志雄

我家的东边是低矮的悬崖地。崖下到地面有六七间,形成两三个台阶的斜坡。数棵落叶树交叉着新绿的枝叶,小鸟往来频繁,地上堆着落叶,杂草丛生,昆虫嬉戏。这样的悬崖地,面积虽小,却富有自然风情。

院子里有一棵老栲树。这种常绿树与其他落叶树不同,在晚春初夏时节,会大量凋谢旧叶,落下剩余的花朵。刮风的日子里,早晚狭窄的庭院里到处都是落叶的旋涡。把它们扫起来撒在崖地,甚至成了家人的日常杂务之一。

不可思议的是事物的感觉。院子里引人注目的落叶,被撒到无人问津的崖地上,自然落得恰到好处,反而安慰了人们的视线。不仅是落叶,就连枯枝和稻草屑也被这片崖地拥抱同化于“自然”之中。

家居之日几次,我被吸引到崖地。落叶、枯枝、草屑、杂草、昆虫、小鸟、绿叶、越过远处房屋的微风、星星点点的阳光……。

然而,我偶尔也会受到不快的打击,皱起眉头。脚边掉着小纸片和线头。在这个任凭事物散乱、任凭植物生长的崖地中,一片纸片和线头是多么丑陋地引人注目啊!散发着人工气息、带有人类气息的东西,无论多么微小的东西,在这里都是丑恶的。

我站在那里,遥想山野林泉……。山野林泉中,枯草枯叶,石块土块,皆为自然风情之一。鸟兽的粪便也成为一种情趣。然而,所有人性的东西都是不协调的丑恶。原野和泉水边有便当盒、一片报纸、人手剥过的橘子皮……等发现的时候呢?在僻静的山路上遇到马粪,甚至人粪的时候会怎样?至今仍有人怀念的心情,是包含各种因素的不纯感情的作用,直接的印象只会使人皱起眉头。

为什么鸟兽的粪便装饰自然,人类的使役动物牛马的粪便与自然不相容,人类的粪便污染自然呢?人类的生活就这么与自然对立吗?或者说,人是独立的、同类反复性的东西吗?或者是人类对自然的憧憬渴慕之情很深?

我想到了半人半兽。米诺托尔、桑托尔、狮身人面像、人鱼、福努、萨奇尔……。从半人半兽的兽性到神性。

脚边的纸片和线头,在我眼中留下越来越不愉快的印象。我从崖地返回脚。而且,家人明明拜托我把带有人类气息的东西全部捡出来,却不小心和落叶一起撒到崖地,我对他们的粗心大意感到焦躁,难道不是应该感到焦躁吗?

话虽如此,一个人走在落叶上寂寞,两个人走在落叶上快乐,一群人走在落叶上高兴。我梦想进入自然而不知污秽的人,更梦想进入自然而不知污秽的生活。

“我为黑砂糖被逐出东京而感到悲哀。在我少年时代,几乎所有的砂糖店里都有那种黏糊糊的黑砂糖。但现在几乎看不到了。虽说文明的进度与砂糖的消费量成正比,或与白砂糖的消费量成正比,但驱逐黑砂糖而使用白砂糖,这算什么文明,我很鄙视这种文明人的味觉。”——这是某个美食家说的话。

但要我说的话,我很想反问一句,为什么不赞美蔗糖而不是黑砂糖呢?今天在东京几乎不能吃蔗糖。偶尔在深川一带庙会的摊位上看到这种干瘪的东西。而且,城市里的孩子不怎么看。

从味道本身的角度来看,黑砂糖胜过白砂糖,蔗糖比黑砂糖还要高出好几级。剥掉蔗糖光泽的外皮,吮吸那白色的果肉,那种甘甜的快感,我一辈子都不会忘记吧。

我认为,有一种味道胜过天然的味道。不只是糖。

乡下的儿童在野外玩耍时,有时会生吃,啃萝卜、啃瓜、啃茄子、啃莲花。我梦想着他们洁白的牙齿、健康的唾液和新鲜的味觉。

鲷鱼、金枪鱼等其他鱼类,从香鱼到鰛,许多鱼肉的味道无论用什么烹调方法都比不上生的。鸡肉也好,牛猪肉也好,最棒的味道在于生鱼片。牡蛎和鲍鱼都是生的。即使是内脏,动物也最喜欢生的东西。就算是最先进的料理,其中的珍馐,如熊掌、鳖裙、吟士蟆等,保留了最多的天然味道。

酒类也一样。喜欢苦艾酒的人,会被其天然的芳醇所吸引。日本酒的上品在于处于发酵菌作用中的米酒的上澄。再来考虑一下“咸子酒”的问题。

如果烹饪方法会使自然的味道变质,我就诅咒这种烹饪方法。如果改变自然的是文明,那么我诅咒这样的文明。

我追求的是保持天然味道的食材,尽可能保持天然的生食,再配上人为的调味剂。举例来说,生鱼片的酱油、醋拌凉菜的醋、荞麦面酱、田乐的味增等,正是这些酱油、醋、醋酱、味增等,应该使用各种香料,绞尽脑汁研究,天然的材料本身,始终是天然的。我想当妈妈。

谈论料理之类的事,也许是闲人的闲事。然而,回顾我们的生活,为了使天然美味变质,耗费了多么繁杂的劳力,再加上食用变质的人工食物,无论在精神上还是肉体上,活力都会减退。我、我是这么想的。

天然自然中蕴藏着最丰富的活力。

 私の家の東側は、低い崖地になっている。崖下の地先まで六七間、二三の段階をなしてる傾斜である。数本の落葉樹が新緑の枝葉を交差し、小鳥の往来繁く、地面には落葉積り、雑草生い茂り、昆虫類が戯れている。かくてこの崖地、僅かの坪数ながら、自然の風趣に富む。

 庭先に椎の古木がある。この常緑樹は、他の落葉樹と異って、晩春初夏の頃、盛んに古葉を散らし、余剰の花を降らせる。風の日には、朝夕、狭い庭のあちこちに、落葉の渦が巻く。それを掃き集めて崖地に撒布するのが、家人の日常雑用の一つとまでなっている。

 不思議なのは、物の感じである。庭先にあって目触りとなる落葉は、自然のまま放置されてる崖地に撒かれると、おのずからその所を得て落付き、却って人目を慰める。落葉ばかりでなく、枯枝や藁屑までも、この崖地はその「自然」のなかに、抱擁し同化する。

 その崖地に、私は家居の日幾度か、おのずから誘い込まれる。落葉、枯枝、藁屑、雑草、昆虫、小鳥、青葉、遠く家並を越えてくる微風、点々とした日の光……。

 然るに、時々、ふと、私は不快な打撃を受けて、眉をひそめる。足許に、小さな紙片、糸屑が、落ちているのだ。物の散らかるに任せ植物の生い茂るに任せられたこの崖地の中で、一片の紙片や糸屑が、如何に醜く人目につくことか! 人工の匂いがし、人間の息吹がかかってるものは、如何に零細なものでも、ここでは凡て醜悪となる。

 私はそこに立ったまま、遙に、山野林泉のことを想う……。山野林泉に於ては、枯草も枯葉も、石ころも土くれも、みな自然の風情の一つとなる。鳥獣の糞でさえも、一つの風趣となる。然し、凡て人間的なものは、不調和な醜悪となるのである。野の中や泉のほとりに、弁当の折箱、新聞紙の一片、人の手にむかれた蜜柑の皮……などを見出した時は如何。人里遠い山道で、馬糞に、更に人糞に、出逢った時は如何。茲にも人ありとなつかしむ気持は、種々のものを含む不純な感情の作用であって、直接の印象は、眉をひそめさせるだけである。

 何故に、鳥獣の糞は自然を飾り、人間の使役動物たる牛馬の糞は自然と相容れず、人間の糞は自然を汚すのか。それほど、人間の生活は自然と対立するものなのか。或は、人間は個立的で同類反撥的なものなのか。或は、人間の自然に対する憧憬渇仰の念が深いのか。

 私は半人半獣のことを思う。ミノトール、サントール、スフィンクス、人魚、フォーヌ、サチール……。半人半獣の獣性から神性のことまでを想う。

 足許の紙片や糸屑は、益々不快な印象を私の眼に送る。私は崖地から足を返す。そして、人間の息吹のかかったものは凡て拾い出すように頼んでいるにも拘らず、それを不注意にも落葉と共に崖地に撒いた家人の無神経さに対して、私が苛立つのは、苛立つ方がいけないのであろうか。

 さはあれ、落葉の上を一人で歩くのは淋しく、二人で歩くのは楽しく、大勢で歩くのは喜ばしいだろう。自然の中にはいって汚れを知らない人間を、更に、自然の中にはいって汚れを知らない生活を、私は夢想する。

「東京から黒砂糖が駆逐されることを、僕は悲しく思う。僕の少年時代には、大抵の砂糖屋には、あのねっとりした黒砂糖があったものだ。それが、この頃では殆んど見当らない。文明の進度は、砂糖の消費量に比例する、或は白砂糖の消費量に比例する、と云われるけれど、黒砂糖を駆逐して白砂糖を使うところに、何の文明だ。僕はそういう文明人の味覚を軽蔑する。」――と、これは、さる食道楽者の言葉である。

 然し私に云わすれば、黒砂糖よりも寧ろ砂糖黍を何故讃美しないか、と反問したい。今日東京では、砂糖黍をしゃぶることは殆んど出来ない。時折、深川あたりの縁日の屋台店に、そのしなびたものを見かけるくらいである。それも、都会の児童は余り見向かない。

 味そのものの見地からすれば、黒砂糖は白砂糖にまさり、更に砂糖黍は黒砂糖にまさること数段である。砂糖黍の艶やかな皮をむいて、あの白い中身をしゃぶる甘味快味を、私は終生忘れないだろう。

 私は考える、天然の味にまさる味ありやと。ただに砂糖のみではない。

 田舎の児童は、野に遊びながら、時折、生のまま、大根をかじる、瓜をかじる、茄子をかじる、蓮をかじる。その彼等の、白い歯と健康な唾液と新鮮な味覚とを、私は夢想する。

 鯛や鮪や、其他、鮎から鰛に至るまで、多くの魚肉の味は、如何なる調理法を以てしても、生のものには及ばない。鶏肉も牛豚肉も、最上の味は、その刺身にある。牡蠣も鮑も、生に限る。臓物でさえ、動物はその生のものを最も喜ぶ。最も進歩していると云わるる支那料理に於ても、その珍味とされてるもの、熊掌、鼈裙、吟士蟆のたぐいは、天然の味を最も多く保有している。

 酒類も同様である。アブサントを好む者は、その天然的な芳醇さに惹きつけられるのである。日本酒の最上は、醗酵菌作用中のどぶろくの上澄みにある。更に、揶子酒のことを考えてみるがよい。

 自然の味を変質するのが料理法であるならば、私はそういう料理法を呪う。自然を変造するのが文明であるならば、私はそういう文明を呪う。

 あくまでも天然の味を保有してる材料、出来得べくんば天然の生のまま、それに配するに人為的な調味剤、そういう料理法を私は求める。例えて云えば、刺身の醤油、酢の物の酢、そばのおしたじ、でんがくの味噌など、その醤油や酢やおしたじや味噌などこそ、あらゆる香料を用い人智をしぼって研究すべきであり、天然の材料そのものは、あくまでも天然のままでありたい。

 料理のことなどを云々するは、閑人の閑事であるかも知れない。然し、吾々の生活のことを顧みる時、天然の美味を変質するために、如何に煩雑な労力がそこに徒費されているか、更に、変質された人工的な食物を取ることによって、精神的にも肉体的にも如何に活力の減退を来しているか、それを私は考えるのである。

 天然自然のうちにこそ、最も豊富な活力が存在する。

版权声明:
作者:Mr李
链接:https://www.techfm.club/p/229103.html
来源:TechFM
文章版权归作者所有,未经允许请勿转载。

THE END
分享
二维码
< <上一篇
下一篇>>