病房的花 寺田寅彦

病室の花

寺田寅彦

(译自青空文库)

病房的花

——寺田寅彦

发病前四五天,我去了三越,顺便买回来一小盆秋海棠。我想将它与书架并排放在书房里的书桌上,每晚在灯光下欣赏一番,要是有空的话再给它写一篇散记,没想到未能如愿就住进了医院。

発病する四五日前、三越(みつこし)へ行ったついでに、ベコニアの小さい鉢(はち)を一つ買って来た。書斎の机の上へ書架と並べて置いて、毎夜電燈の光でながめながら、暇があったらこれも一つ写生しておきたいと思っていたが、つい果たさずに入院するようになった。

入院那天,妻子将各种用具连同这盆花一起带来了,将它放在床头边镶着大理石的药柜上。花盆被灰色的墙壁和洁白的窗帘围绕着,从色彩上来说,病房里除了涂了暗红色的橱柜和床头发亮的黄铜把手,再无其他颜色;而自从有了这盆花,阴冷的病房一下子变得温馨热闹起来。一边躺着,一边看着那宝石似的大红的花蕾,还有那天鹅绒似的有光泽的绿叶投向灰暗的墙壁,真是赏心悦目。

 入院の日に妻がいろいろの道具といっしょにこの鉢を持って来た、そして寝台のすぐ横にある大理石を張った薬びん台の上に載せた。灰色の壁と純白な窓掛けとで囲まれたきりで、色彩といえばただ鈍い紅殻塗(べんがらぬ)りの戸棚(とだな)と、寝台の頭部に光る真鍮(しんちゅう)の金具のほかには何もない、陰鬱(いんうつ)に冷たい病室が急にあたたかくにぎやかになった。宝石で作ったような真紅のつぼみとビロードのようにつやのある緑の葉とを、臥(ね)ながら灰色の壁に投射して見ると全く目のさめるように美しかった。

我经常在想,不管是多么精巧的人造花,与天然花比起来,怎么说也是质地粗糙的、无法对比的东西。曾经在美国某家博物馆看到一位有名大师制作的玻璃花,与天然花相比,简直是不值一提的廉价货,而且给人以讨厌的感觉。这样差别的根源究竟在哪里呢?如果以关系到色彩和形态的所有抽象概念和语言作为标准来比较的话,人造花和真花在外形上很难区别,也是不得要领的事情。也许有人会说“一个是死的,另一个是活的”。但这只不过是将一个疑问转换成了另一种语言。实际上要作明白无误的区别,还是要将两者在显微镜底下检查,方才能搞明白。一方是不规则的、干燥的、简单的纤维组合,或者是不规则的、有凹凸的无晶体块状,而另一方是复杂的、有规则的细胞有机体组合。美和近似美的东西的差别,其有无微妙之处,不是总是存在于人们普通的感觉范围之外吗?说到人的意识深处所隐藏着的自我这样的东西,不就是决定人性之美的要素吗?一边想着这些事情,一边深有感触地凝视着秋海棠,我发觉仅仅凭自己微弱的眼力,似乎就能感知到从花瓣的每个细胞所迸发出来的生命的光辉。

 いつでも思う事ではあるが、いかに精巧をきわめた造花でも、これを天然の花に比べては、到底比較にならぬほど粗雑なものである。いつかアメリカのどこかの博物館で、有名な製作者の造ったというガラスの花を見たが、それも天然の花に比べてはまるで話にならぬほどつまらない、しかもいやな感じのするものであった。このような差別の根原はいったいどこにあるだろう。色彩や形態に関するあらゆる抽象的な概念や言葉を標準にして比較すれば造花と生花の外形上の区別は非常に困難な不得要領なものになってしまう。「一方は死んでいるが他方は生きている」という人があるかもしれない。しかしそれはただ一つの疑問を他の言葉で置き換えたに過ぎない。実際の明白な区別は、やはり両者を顕微鏡で検査してみて始めてわかるのではあるまいか。一方はただ不規則な乾燥したそして簡単な繊維の集合か、あるいは不規則な凹凸(おうとつ)のある無晶体の塊(かたまり)であるのに、他方は複雑に、しかも規則正しい細胞の有機的な団体である。美しいものと、これに似た美しくないものとの差別には、いつでもこのような、人間普通の感覚の範囲外にある微妙な点があるのではあるまいか。人間でも意識の奥に隠れた自己といったようなものが、その人がらの美しさを決定する要素ではあるまいか。こんな事を考えながらベコニアの花をしみじみ見つめていると、薄弱な自分の肉眼の力ですら、花弁の細胞の一つ一つから出る生命の輝きを認めるような気もする。

入院的第二天,A君带了一束油菜花来,因为没有适当的花瓶,暂时放在洗脸盆里。也许由于在室内开花的缘故,那浓烈的芳香使人想起百灵鸟的鸣叫。不久从家里拿来了花瓶,将其插进去,放在室内角落的洗面台上。同一天外甥N带来一盆西洋兰花,红褐色的小花盆里郁郁葱葱的水苔上方,几片青竹篾般的厚实的叶子对称地向左右展开,正当中一轮兰花微微含羞,俯首伫立。由于大部分都是绿色,那深紫色的布满刷毛纹路的花冠在一般意义上来说,并不算怎么美丽,然而却有着雍容华贵之美,如果与童话中的公主秋海棠并列在一起来观察,我发觉恰如那庄重而忧郁、年轻而英俊的公子!花冠的下半部垂挂着口袋似的一片花瓣,似乎什么时候要向上挺直,打开口袋,可是终究一直也没有打开。

 入院の翌日A君が菜の花を一束持って来てくれた。適当な花瓶(かびん)がなかったからしばらく金盥(かなだらい)へ入れておいた。室咲きであるせいか、あのひばりの声を思わせるような強い香がなかった。まもなく宅(うち)から持って来た花瓶にそれをさして、室(へや)のすみの洗面台にのせた。同じ日に甥(おい)のNが西洋種の蘭(らん)の鉢(はち)を持って来てくれた。代赭色(たいしゃいろ)の小鉢に盛り上がった水苔(みずごけ)から、青竹箆(あおたけべら)のような厚い幅のある葉が数葉、対称的に左右に広がって、そのまん中に一輪の花がややうなだれて立っている。大部分はただ緑色で、それに濃い紫の刷毛目(はけめ)を引いた花冠は、普通の意味ではあまり美しいものではないが、しかしそのかわりにきわめて品のいい静かに落ち着いた美しさがあった。これを、花やかに美しい、たとえばおとぎ話の王女のようなベコニアと並べて見た時には、ちょうど重々しく沈鬱(ちんうつ)なしかも若く美しい公子でも見るような気がした。花冠の下半にたれた袋のような弁の上にかぶさるようになった一片の弁は、いつか上に向き直って袋の口を開くだろうと思っていたが、とうとういつまでも開かなかった。

在此期间,T君夫妇又拿来一大盆秋海棠,这盆花比从家里拿来的那盆要大好几倍,而且更加美丽。自从这盆花一来,原来那盆秋海棠一下子变成难看的落魄不堪的东西了。也许从家带来的那盆花实际上色彩过于单薄了,而与之相比,现在这盆花看上去色彩更鲜艳,使人眼前一亮。于是将原来的那盆放在室内角落里的洗面台上,将新来的这盆秋海棠放在枕边尽情欣赏。然而不可思议的是,将兰花那孤寂的花朵与之对比,看上去一点也不逊色,反而现出比现在更强烈的该花特征。原来的小盆秋海棠也舍不得丢弃,我不时将头扭向洗面台上,注目望之,看到她一天天花残叶衰,我不禁触目伤神。那花瓶里寂寞的油菜花,也每每诱发了我些微怜香惜玉之情。

 そのうちにT君夫妻がまた大きなベコニアの鉢(はち)を持って来てくれた。それは宅(うち)から持って来たのに比べて数倍大きくみごとなものであった。この花が来てみると今まであったベコニアは急に見すぼらしい見る影もないものになってしまった。宅のは花の色ももう実際にいくらか薄くなったのだろう、これに比べて見ると今度のは全く目のさめるようにあざやかであった。古いほうのは室(へや)のすみの洗面台の上にやってしまって、この新しいベコニアを枕(まくら)もとに飽かずながめた。しかし不思議な事には蘭(らん)のさびしい花はこれに比べてもちっとも見劣りがしないのみか、かえって今までよりも強くこの花の特徴を主張するかと思われた。古い小さいベコニアはそれでも捨てるのは惜しかった。自分は時々頭をねじ向けて洗面台の上に目をやって、花も葉も日々に色のあせて行く哀れな鉢を見ないではいられなかった。さびしい花瓶(かびん)の菜の花もそのたびに淡いあわれの情趣を誘うた。

这一次I君送来了仙客来和一品红。一品红过去曾在花店里见过,却一直不知其名,看了送来花盆上插着的木牌才明白。放在药柜上仔细端详,鸡冠花般的树冠为火一样的朱红色,确实是一种鲜明强烈的色彩,让人想到这一定是赤道的颜色。我以为除了花之外,不用说只有鸟类的羽毛才有与之相称的色彩。顶部簇生着一些黄色的小花,看上去显得极其谦逊,若有若无的样子。自然界为何违背常规,将植物的生殖器造得如此难以入目,而另一方面却将起着呼吸光合作用的叶子装饰得如此耀眼?问一问植物学家和进化论者,或许会引出一种什么学说来,但我的心里还是感到不可思议。我想象着这样的植物茂密地生长在热带树林中的样子,回忆起了在新加坡旅游的日子。那种驾着马车,穿行在椰树林当中的红土大道上的不可名状的感觉,至今还清清楚楚地浮现在我的脑海。可是这些细微的记忆宛如梦幻一般淡薄,仅在绿和褐的底色上染出了印花布模样的混杂图案。尽管如此,躺在这寒冷的病榻上,想到那充满强烈的阳光和生命力的南国天地,感到无比的慰藉。

 今度はI君がサイクラメンとポインセチアを届けてくれた。ポインセチアはこれまで花屋で見かけた事はあるが、名はそれまでは知らなかった。もらった鉢にさしてある木札で始めて知った。薬びん台に載せて始めてよく見ると、葉鶏頭に似た樹冠の燃えるような朱赤色は実に強い色である、どうしても熱帯を思わせる色である。花よりはむしろ鳥類の飾り毛にでもふさわしい色だと思う。頂上を見ると黄色がかった小さい花が簇生(ぞくせい)しているが、それはきわめて謙遜(けんそん)な、有るか無きかのものである。いったい自然はどうしていつもの習慣にそむいてこの植物の生殖器をこんなに見すぼらしくして、そのかわりに呼吸同化の機関たる葉をこれほどまでに飾ったのだろう。植物学者や進化論者に聞いたら何かの学説はあるかもしれないが、それにしても不思議な心持ちがしないではいられない。自分はこのような植物の茂っている熱帯の樹林を想像しているうちにシンガポールに遊んだ日を思い出した。椰子(やし)の木の森の中を縫う紅殻色(べんがらいろ)の大道に馬車を走らせた時の名状のできない心持ちだけは今でもありあり胸に浮かんで来るが、細かい記憶は夢のように薄れて、ただ緑と赭(あか)の地色の上に染め出された更紗模様(さらさもよう)のように混雑してしまっている。それでもこの寒く冷たい寝床の上で、強烈な日光と生命のみなぎった南国の天地を思うのはこの上もない慰藉(いしゃ)であった。

仙客来似乎显得有点发育不良,总觉得花有点缺少生气,叶片有点向上萎缩,叶尖已经枯朽,变成了灰褐色。我对这花产生了奇妙的联想,那还是在柏林时发生的事情。家住阿克琴街的语言学老师过生日,我想送什么花作为礼物呢,便顺便去了阿波斯蒂.帕斯基尔街前面的简陋花店,挑来挑去,最后买的就是这种花。请店主用日本进口的粉红色皱纸将花盆包上后,立刻捧着向附近的老师家走去。当时老师告诉我这花叫山地堇。由于这个缘故,我觉得这个名称似乎比仙客来更为合适。那位女老师后来生活怎么样了呢?她本来是专门以教日本留学生为生,随着大战的爆发,日本留学生全部回国,同时市民对日本人的反感也在高涨,在这样的时候,她又有着这样一段讨厌的经历,以后的生计如何维持下去呢?不知什么原因,我会时时想起这件事情。老师结婚之后,她的丈夫达克托尔就去世了,她和作为退伍军人的父亲,丈夫的遗孤、当时只有十四岁的女儿赫尔登卡洛蒂这两人一起相依为命,过着艰难的生活。不知为什么,她与父亲的关系不好。有一天,我们两三个学生带着赫尔登卡洛蒂到雷兹剧院去看戏剧,演的是《白雪公主》。不用说大部分观众都是小孩子,我们这些外国小伙子不由得感到有点难为情。扮演国王的妻子的是个胖得吓人的女演员,她用美妙的声音唱着“镜子啊镜子”。过了两三天后一打听,才知道老师那天晚上得了剧烈的肠痉挛,引起了很大的骚乱。老师的眼圈周围还清晰地留下了青黑色的轮廓,我却无缘无故地以为老师生病似乎是我们的责任。不管如何,看童话剧仅仅就那么一次。

 サイクラメンのほうは少し生育が充分でなかった。花にもなんだか生気が少なく、葉も少し縮れ上がって、端のほうはもう鳶色(とびいろ)に朽ちかかっていた。自分はこの花について妙な連想がある。それはベルリンにいたころの事である。アカチーン街の語学の先生の誕生日に、何か花でも贈り物にしたいと思って、アポステル・パウルス・キルヘの前のけちな花屋へ寄って、あれかこれかと物色した末に買ったのがこの花であった。日本から輸入されたらしい桃色のちりめん紙で鉢(はち)を包んでもらって、すぐその近所の先生の宅(うち)へ持って行った。その時に先生がこれはアルペン菫(ファイルヘン)という花だと教えてくれた。そのせいだか自分にはサイクラメンという名前よりこの名のほうがなんとなくふさわしいような感じがする。あの女先生はその後どうしたのか。日本の留学生ばかりを弟子(でし)にして生活していたのが、大戦の爆発と共に留学生は皆引き上げるし、同時に日本人に対する市民の反感が高まった時に、なんらかのいやな経験をしたのではあるまいか、その後の生計をどうして立てて行ったろうか。これは何かのおりには時々思い出す事であった。先生は結婚後まもなく夫のドクトルに死なれ、退役軍人の父親と、夫の忘れがたみで、当時十四ぐらいであった娘のヒルデガルトと二人でさびしく暮らしていた。よくはわからぬが父親とはあまり仲がよくないらしかった。ある日われわれお弟子(でし)仲間二三人でこのヒルデガルトを連れて、ルイゼン座のおとぎ芝居を見に行った事がある。芝居は「雪姫」であった。観客の大部分は無論子供であったので、われわれ異国の大供連はなんだか少しきまりが悪いようであった。王妃に扮(ふん)した女優は恐ろしく肥(ふと)った女であったが、美しい声で「鏡よ鏡よ」を歌った。それから二三日たって聞いてみると、ちょうどその晩に先生は激烈な腹部の痙攣(けいれん)を起こして大騒ぎをしたとの事であった。先生の目の周囲には青黒い輪が歴然と残っていた。自分はなんという理由なしに、この病気を起こさせた責任が自分らにあるような気がしてしかたがなかった。とにかくおとぎ芝居へ行ったのはただあの時一度だけであった。

五岁的雪子由姐姐带着到医院来探望,开始时老老实实地默默看着护士的脸,渐渐习惯了,最后终于爬到床上来了。接着她瞅见了枕边的花盆,发现了隐藏在叶丛里的木牌,便大声朗读起用假名书写的花名,由于这种朗读方法很奇怪,大家都笑了。她最近刚学会了片假名,因此不管看到什么片假名都一定要读一遍。从此以后,每次来都要坐到床上,不读一遍不算罢休。我直到现在才认识到“文字”难以想象的意义,还联想到了关于人类未来知识的各种事情。

 五歳になる雪子(ゆきこ)が姉につれられて病院へ見舞いに来た。始めのうちはおとなしくして看護婦の顔ばかり見て黙っていたが、だんだんに慣れて来て、おしまいにはとうとう寝台の上まで上がり込んで来た。そして枕(まくら)もとの花鉢(はなばち)をのぞき込んで、葉陰にかくれた木札を見つけ、かなで書いた花の名を一つ一つ大きな声で読み上げた、その読み方がおかしいので皆が笑った。近ごろかたかなを覚えたものだから、なんでもかたかなさえ見れば読んでみなくてはいられないのである。それから後は来るたびごとに寝台にすわりこんで、この花の名を読まない事はなかった。自分は今さらのように「文字」というものの不思議な意味を考えさせられ、また人間の知識の未来というような事についてもいろいろの事を考えさせられた。

我很想知道一品红这个字到底是如何拼写的,偶尔看了丸善书店寄来的《近代美术》,其中有一幅由名叫罗杰弗雷的人以花为主题画的水彩画,这才弄明白。这幅画附带的解说这样写道:“这幅画真正的特征应该叫study(学习)。见到原物就这样毫无偏见地画下来,这是近代画尝试的良好典范。云云。”墙壁上散乱地贴着布条和皱巴巴的纸片,以此为背景,普通的牛奶瓶里随手插了两支一品红,整体的感觉还不错,可是与枕边的这盆真花相比,总觉得叶子的排列有点奇怪。以植物学家的目光看来,确实是画错了,可是写前面解说词的美术批评家却献上了上述之赞美词。我认为该批评家所说的话相当不靠谱,可是再一想,也许确实如此。

 ポインセチアとはいったいどうつづるのか知りたいと思っていた。偶然丸善(まるぜん)から取り寄せた「近世美術」を見たら、その中にロージャー・フライという人がこの花を主題にして描いた水彩があったのでそれがわかった。この絵に付した解説にこんな事が書いてある。「この絵はほんとうに特徴のスタディと呼ばるべきものである。物をそのままに見て、そして偏見なしに描こうとする近代の試みの好適例であるうんぬん。」壁に布切れやしわくちゃの紙片をだらしなく貼(は)りつけたのをバックにして、平凡な牛乳びんに二本のポインセチアが無雑作(むぞうさ)に突きさしてあるだけである。全体の感じはなるほど悪くないが、今枕(まくら)もとにある本物と比べて見ると、どうもなんだか葉の排列のしかたがおかしい。植物学者の目で見ればこれは確かに間違っている。しかし前の解説を書いた美術批評家は上のような賛辞を呈している。この批評家のいっている事はずいぶんいいかげんのようにも思われるが、また考え直してみるとほんとうのようにも思われた。

护士每天早上将花盆拿到室外去换水,每次在走廊上都听到很多赞美的声音,大家都说:“这花真漂亮!”与秋海棠和兰花的良好长势相比,一品红却渐渐衰败了。长在笔直的长茎周围,保持一定间距的轮盘状生长的绿叶逐渐变成了黄绿色。我提醒护士和妻子,是不是因为过多换水而造成的。可是由于缺乏积极指导方面的知识,只能听之任之。在此期间,叶片慢慢变得失去光泽,黄斑长驱而入,下面的叶子开始一片两片地掉落。残留的叶子只要用手指一碰,就脆弱地掉了下来。不知为什么,从充满强劲活力的枝干上,看上去好像是冒出来的威势十足的叶片,竟然不堪极其微弱的压力,无缘无故地掉落下来,我觉得简直不可思议。这样下去,连靠近根部的叶子也会按照上下顺序,逐渐脱落下来的。

 看護婦は毎朝これらの花鉢(はなばち)を室外へ持ち出して水をやってくれた。そのたびごとに廊下でだれかが「マアきれいな花ですこと」とぎょうさんにほめる声が聞こえた。ベコニアや蘭(らん)の勢いのいいのに比べて、ポインセチアは次第に弱るように見えた。まっすぐに長い茎のまわりに規則正しい間隔をおいて輪生した緑の葉がだんだんに黄緑色に変わって来るのであった。水をやりすぎるためではないかと思われたから看護婦にも妻にもそう注意した。しかし積極的にさしずをするだけの知識はないからそのままに任せておいた。そのうちに葉は次第につやが無くなり、黄みが勝って来て、とうとう下のほうの葉が一つ二つ落ち始めた。残った葉もほんのちょっと指先でさわるだけでもろく落ちるのであった。何かしら強い活力で幹から吹き出しているように見えた威勢のよかった葉がきわめてわずかな圧力にも堪えず、わけもなく落ちるのが不思議なようにも思われた。このようにして根もとに近いほうから順序正しくだんだんに脱落して行くのであった。

S君又送来了秋海棠,大小与上一次T君送来的相同,不过花和叶子的色彩与前面那盆相比,大体上要逊色许多,使人不由得感到冷清空寂,可是又使人不由得感受到一种素朴的野花的情趣。我想虽然同属一种花,由于培养方法和周围状况的不同,却产生了如此大的差异。土壤的质地、肥料和水的供给、乃至于光线和温度的关系,同属一种花,却产生了贵族和平民。花的贵族和平民因为不会说话,所以不会争斗,我又想到了如此之类的事情。

 S君がまたベコニアを届けてくれた。大きさは前にT君からもらったのと同じくらいであった。しかし前のに比べて花の色も葉の色もいったいに薄くてなんとなくさびしかった。そのかわりまたなんとなくあっさりした野の花のような趣はあった。同じ種類の花でありながら培養の方法や周囲の状況の相違でこれほどにもちがったものができるかと思った。土の性質、肥料や水の供給、それから光線や温度の関係で同じ種から貴族と平民が生まれるのであった。花の貴族と平民とは物を言わないから争闘はない。こんな事を考えたりした。

接着,O君又将一只浅浅的大盆种植了各种各样的花草送来了。中央还是种了秋海棠,周围是一片片宛如绿纱的、我想是翠竹的叶片,向四周展开去,下面可以瞅见火红的天竺葵,底层是棒棒糖似的蟹爪仙人掌,几朵花垂到了花盆边缘的下面。每一种花都很美丽,汇集了如此多的人工,总觉得因为不自然而并非十全十美,但却不失为种在金属器具中的热闹非凡的花。不眠之夜的几个小时里,因为这盆花而觉得时间变短了。在失眠之中回忆起了各种往事,其中有一次得到N先生病重的通知,便前去探望。那时路过江户川的大曲花店,买的正是秋海棠。用纸将花盆包裹好,佩上题词,用手捧着,也不乘车,走到了早稻田。从那时开始,我的身体就相当不好了,我的胃已经开始少量出血。对此却一无所知,想要节省车钱,我忍耐着步行。虽然未被允许与重病中的先生会面,可是远道带来的花由夫人搬到了病床那里。夫人马上又从病房里走出来,说了一句:“先生说花真漂亮!”如此想来,那是从先生那里得到的最后的一句话。现在自己得了夺去先生生命的同样的病而住院,幸好没有什么大的危险。在同样的季节得了同样的病,在枕边看到了同样的秋海棠,要说这是偶然事件吧,也纯属偶然。可是仔细一想,又觉得这里会不会有什么必然的因果关系呢?平常的事件中存在偶然的暗合,实际上常常并非如此。如果说先生与弟子之间存在共同点的话,即使单纯是精神上的,肉体上也多少会受到影响。或者由于在肉体上有共同点的原因,反过来给精神带来影响,使得两个各自生活的人由于师徒关系而未必不会生出一段因缘。这么说来,先生和弟子患同样的病的几率,也许比完全无缘的两个人要大得多。如果患同样的病,也许会在同样的时候变得更加严重起来。毋庸置疑有这样的事,我想到过这样的事情。在这样的时候,我觉得可以得出这种非常确实的理论。

 次にはO君から浅い大きな鉢(はち)にいろいろの草花を寄せ植えにしたのを届けてくれた。中心になっているのはやはりベコニアで、その周囲には緑色の紗(しゃ)の片々と思うようなアスパラガスの葉が四方に広がり、その下から燃えるようなゼラニウムがのぞき、低い所にはアルヘイ糖のように蟹(かに)シャボの花がいくつか鉢の縁にたれ下がっていた。一つ一つの花はきれいであるがこのように人工的に寄せ集めたところになんとなく物足りない不自然さがあった。しかしともかくもにぎやかに花やかなものであった。眠られぬ夜中の数時間はこの花のためにもどれほどか短くされた。眠られぬままにいろいろな事を考えた中にも、N先生が病気重態という報知を受けて見舞いに行った時の事を思い出した。あの時に江戸川(えどがわ)の大曲(おおまがり)の花屋へ寄って求めたのがやはりベコニアであった。紙で包んだ花鉢をだいじにぶら下げて車にも乗らず早稲田(わせだ)まで持って行った。あのころからもうだいぶ悪くなっていた自分の胃はその日は特に固く突っ張るようで苦しかった。あとから考えてみるとあの時分から自分の胃はもう少しずつ出血を始めていたのである。そうとも知らずわずかの車賃を倹約するつもりで我慢して歩いて行った。重態の先生には面会は許されなかった。しかし持って行った花は夫人が病床へ運んでくれた。夫人はやがて病室から出て来て「きれいだなと言っていましたよ」と言った。考えてみるとこれが先生から間接にでも受けた最後の言葉であった。今自分は先生の生命を奪い去った病と同じ病で入院している。幸いに今度はたいして危険もなくて済みそうである。同じ季節に同じ病気をして同じベコニアの花を枕(まくら)もとに見るというのは偶然の事といえば偶然であるが、よく考えてみたらそこに何かの必然の因果があるのではないかという気がした。普通に偶然の暗合と見られる事でも、実はそうでない場合がかなりしばしばある。先生と弟子(でし)との間にある共通な点があらば、それは単に精神的のものでもこれが肉体の上に多少の影響を及ぼさないとは言われない。あるいは逆に肉体に共通な点のあるのが原因でそれが精神に影響して二人の別々な人間の間に師弟の関係を生じる一つの因縁にならないとは限らぬ。もしそうだとすれば先生と弟子とが同じ病気にかかる確率(プロバビリティ)は、全く縁のない二人がそうなるより大きいかもしれない。病気が同じならば同じ時候によけいに悪くなるのはむしろありそうな事である。こんな事を考えたりした。そしてその時にはこれがたいへんに確実な理論(セオリー)ででもあるような気がしたのであった。

出院的时候,兰花已完全枯萎,只剩下了叶子。一品红只残留着顶上的红叶,仿佛是鸟的羽毛。仙客来也大部分干瘪了,唯有三盆秋海棠,虽然颜色有点消褪,却仍然开着花。我本打算在退病房后,无论如何要与大家一起将其装进货车带回家,可不巧这天下起了雨。货车上没有雨披,只好用人力车搬运东西,因此决定将花盆都留下。我想麻烦护士她们,无论如何帮着处理一下,护士笑嘻嘻地答应了下来,我才放下了心。只是O君送的那盆花色正艳,我说有点不舍得,妻子就抱在膝盖上带回了家。暂且放在会客室里,后来又置于走廊外面的盆栽台上,每夜风吹霜打,秋海棠终于全部干枯,只剩花茎像折断的杉木筷子似的竖着。蟹爪仙人掌的花和叶变得又粘又白,紧紧贴在花盆上。只有天门冬轻纱般的叶子依然保持着一部分浓绿,立在那里。

退院するころには蘭(らん)の花もすっかり枯れて葉ばかりになった。ポインセチアも頂上の赤い葉だけが鳥毛のようになって残っていた。サイクラメンもおおかたしなびてしまった。しかしベコニアだけは三つとも色はあせながらもまだ咲き残っていた。それでともかくもみんな退院の荷車に載せて持ち帰るつもりでいたが、あいにくその日雨が降りだした、そして荷車には雨おおいがないというので人力車で荷物を運ぶ事になった。それがために花鉢(はなばち)は皆残して行く事にした。看護婦に、迷惑だろうがどうにか始末をしてもらいたいと頼んだら「いただきます」と答えてニコニコしていたので安心した。ただO君からもらった寄せ植えの鉢(はち)だけはまだ花の色もあざやかであるから惜しいと言って、妻がひざの上にのせて持ち帰った。しばらくはそれを応接間へ出してあったが、後には縁側の外の盆栽台に置かれたままで、毎夜の霜にさらされていた。ベコニアはすっかり枯れて茎だけが折れた杉箸(すぎばし)のようになり、蟹(かに)シャボの花も葉もうだったようにベトベトに白くなって鉢(はち)にへばりついている。アスパラガスの紗(しゃ)のような葉だけはまだ一部分濃い緑を保って立っている。

住了三个多星期的医院,自己的身边和内心都发生过各种各样的变故,还读了不少书,考虑过不少事情。许多人来探望,在我内心深处投下了这样那样的光明和阴影。可是关于这些,我一概不想写下来。现在,只记下了在病房中曾给予我欢乐的花的故事,我觉得这足以反映关于我住院生活的全部内容了。也许在他人看来并不以为然,可是对我自己来说,这篇乏味的记录似乎成了我所有不可忘怀的珍贵经验的总目录。

(大正九年五月,紫杉)

 三週間余り入院している間に自分の周囲にも内部にもいろいろの出来事が起こった。いろいろの書物を読んでいろいろの事も考えた。いろいろの人が来ていろいろの光や影を自分の心の奥に投げ入れた。しかしそれについては別に何事も書き残しておくまいと思う。今こうしてただ病室をにぎわしてくれた花の事だけを書いてみると入院中の自分の生活のあらゆるものがこれで尽くされたような気がする。人が見たらなんでもないこの貧しい記録も自分にとってはあらゆる忘れがたい貴重な経験の総目次になるように思われる。

(大正九年五月、アララギ)

病室之花

寺田寅彦

发病前四五天,我去了三越百货,顺便买了一盆小的秋海棠回来。我把它和书架并排放在书房的桌子上,每晚在电灯下看着它,想着有空的时候一定要把它写生下来。然而,我还没来得及实现这个愿望就住院了。

住院那天,妻子把这盆花和其他东西一起带来了,放在了病床旁边大理石面的药瓶台上。病房被灰色的墙壁和洁白的窗帘环绕着,除了暗红色的橱柜和病床床头闪耀的黄铜配件,几乎没有其他色彩。这盆花让原本阴沉冰冷的病房一下子变得温暖而热闹起来。我躺在床上,看着那如宝石般鲜艳的红色花蕾和如天鹅绒般有光泽的绿叶投射在灰色的墙壁上,美得让人陶醉。

我常常想,无论多么精致的人造花,与天然的花相比,都显得粗糙不堪。有一次,我在美国的一家博物馆里看到了据说由著名工匠制作的玻璃花,与天然的花相比,它显得那么无趣和令人厌恶。这种差异的根源究竟在哪里呢?如果以色彩和形态的抽象概念和术语为标准进行比较,人造花和真花在外观上的区别就变得非常困难和模糊。也许有人会说:“一个是死的,一个是活的。”但这只是用另一种方式表述了问题。实际上,真正的区别可能只有在显微镜看下出来才能。一方只是不规则的干燥纤维集合体,或者是不规则的无定形块状物;而另一方则是而复杂有规律的细胞有机群体。美与似美而非美的事物之间的差异,是否总是存在于人类普通感知范围之外的微妙之处呢?人类内心深处隐藏的自我,是否也是决定一个人美丽与否的因素呢?当我这样想着,凝视着秋海棠的花朵时,我甚至觉得,即使是我那微弱的肉眼,也能感受到花瓣细胞中散发出来的生命光芒。

住院的第二天,A君给我带来了一束油菜花。因为没有合适的花瓶,我把它暂时放在了金属洗脸盆里。也许是因为在室内开放的缘故,它没有那种让人想起云雀歌声的浓郁香气。不久后,我把它插在了从家里带来的花瓶里,放在了房间角落的洗脸台上。

同一天,我的外甥N给我带来了一盆西洋兰花。在赭色的小花盆里,厚厚的、像青竹篾一样的叶子从水苔中对称地向左右展开,中间有一朵微微下垂的花。它的大部分是绿色的,紫色的花瓣上有深色的条纹,从普通意义上来说,它并不是非常美丽,但却有一种高雅、沉静的美。当我把它和艳丽的秋海棠放在一起时,它就像一位忧郁而英俊的年轻公子。我原本以为兰花下面像袋子一样的花瓣会向上张开,但它始终没有打开。

不久后,T君夫妇给我带来了一盆更大的秋海棠。这盆花比我从家里带来的那盆大好几倍,也鲜艳得多。相比之下,家里带来的那盆显得黯然失色。我把旧的那盆放在了房间角落的洗脸台上,而把这盆新的放在了枕边,百看不厌。奇怪的是,那朵孤独的兰花并没有因为这盆艳丽的秋海棠而显得逊色,反而更凸显了它的独特之处。我还是舍不得扔掉那盆旧的小秋海棠,时不时地会转头看看它,看着它的花朵和叶子一天天褪色,心中充满了怜惜。那束孤独的油菜花也总是勾起我淡淡的哀伤。

后来,I君给我送来了仙客来和一品红。我以前在花店见过一品红,但不知道它的名字。直到看到花盆上的木牌,我才知道它叫一品红。我把它放在药瓶台上仔细观察,发现它那像鸡冠一样燃烧着的朱红色叶子非常鲜艳,让人联想到热带地区。我觉得这种颜色更适合作为鸟类的装饰羽毛,而不是花朵。在它的顶部,有一些黄色的小花簇生在一起,但它们非常不起眼,几乎可以忽略不计。我不禁想,大自然为什么违背常规,把这种植物的生殖器官设计得如此不起眼,却把作为呼吸同化器官的叶子装饰得如此艳丽呢?也许植物学家或进化论者能给出一些理论解释,但我仍然觉得这很不可思议。我想象着热带丛林中生长着这种植物的景象,不禁想起了在新加坡的日子。我还记得在椰子树林中,乘坐马车行驶在暗红色大道上时那种难以言喻的心情,尽管具体的记忆已经像梦一样模糊,但那种感觉至今仍清晰地留在我的心中。在这寒冷的病床上,回忆起那强烈的阳光和充满生机的南国天地,是一种莫大的慰藉。

仙客来的生长状况不太好,花朵缺乏生气,叶子也有些卷曲,边缘已经开始变成鸢尾色,快要枯萎了。这盆花让我想起了在柏林的一段往事。在阿喀琉斯街的语言老师生日那天,我想买些花作为礼物。我在阿波斯泰尔·保罗教堂前的一家小花店挑选了很久,最后买了这盆仙客来。我让店主用从日本进口的桃色绉纸把花盆包起来,然后立刻送到了老师家。老师告诉我,这种花叫阿尔卑斯堇。不知为什么,我觉得这个名字比“仙客来”更适合它。我不知道老师后来怎么样了。她靠教日本留学生为生,但大战爆发后,留学生都回国了,同时市民对日本人的反感也增加了,她是否经历了一些不愉快的事情呢?她后来是如何维持生计的呢?这些问题时不时地会在我脑海中浮现。老师结婚不久后,她的医生丈夫就去世了,她和退役的父亲以及当时大约十四岁的女儿希尔达加德一起孤独地生活着。她和父亲的关系似乎不太好。有一次,我和几个同学带着希尔达加德去路易森剧院看了一场童话剧《雪公主》。观众大多是孩子,我们这些异国的大孩子感觉有点不自在。扮演王妃的女演员非常胖,但她用美丽的声音唱着“镜子啊镜子”。几天后我听说,就在那天晚上,老师突然腹部剧烈痉挛,闹得很厉害。老师的眼睛周围留下了明显的青黑色眼圈。我莫名其妙地觉得,我们应该对她的病负责。总之,那是我们唯一一次去看童话剧。

五岁的雪子在姐姐的带领下来医院看望我。一开始,她很安静,只是默默地看着护士的脸。渐渐地,她熟悉了环境,最后甚至爬上了我的病床。她往枕边的花盆里看了看,发现了藏在叶子后面的木牌,然后大声地念出了上面写的花名。她的发音很滑稽,大家都笑了。最近她刚学会了片假名,所以只要看到片假名就忍不住要读出来。从那以后,她每次来都会坐在病床上读花名。这让我重新思考了“文字”的神奇意义,也让我对人类知识的未来有了更多的思考

我一直想知道“一品红”这个词怎么写。偶然间,我在从丸善书店订购的《近代美术》杂志上看到了罗杰·弗莱以一品红为主题画的水彩画,才知道了它的写法。这幅画的解说中写道:“这幅画真正可以被称为特征研究。它是现代画家试图如实观察事物并毫无偏见地描绘它们的一个很好的例子。”画中,背景是墙上随意贴着的碎布和皱纸,一个普通的牛奶瓶里随意插着两枝一品红。整体感觉还不错,但与我枕边的真花相比,叶子的排列方式看起来有点奇怪。从植物学家的角度来看,这幅画肯定是画错了。然而,写解说的艺术评论家却给予了高度评价。我一开始觉得这位评论家的评价很随意,但仔细想想,又觉得他说得似乎也有道理。

护士每天早上都会把这些花盆拿到室外浇水。每次在走廊里,我都会听到有人赞叹:“哇,这些花真美!”与生机勃勃的秋海棠和兰花相比,一品红似乎渐渐枯萎了。它那长长的茎周围规则排列的绿叶逐渐变成了黄绿色。我担心是浇水过多导致的,就提醒了护士和妻子。但由于我没有足够的知识来采取积极的措施,只好听之任之。不久后,叶子失去了光泽,黄色越来越明显,最后下面的叶子开始一片一片地掉落。剩下的叶子也很脆弱,轻轻一碰就会掉下来。那些曾经看起来充满活力的叶子,竟然经不起这么轻微的压力,无缘无故地掉落,这让我感到很奇怪。叶子就这样从根部开始,有顺序地逐渐掉落。

S君又给我送来了一盆秋海棠。它的大小和之前T君送的差不多,但花和叶子的颜色都比之前的淡,有一种淡淡的孤寂感。不过,它也有一种质朴的野趣。我不禁想,同样的花种,由于培育方法和生长环境的不同,竟然会有如此大的差异。土壤的性质、肥料和水的供应、光线和温度的影响,使得同一品种的花也能产生贵族和平民之分。花的贵族和平民不会说话,所以不会发生争斗。我常常这样想着。

接着,O君给我送来了一个浅而大的花盆,里面种着各种花草。中间是一盆秋海棠,周围是像绿色纱巾一样的文竹叶子向四周伸展,下面露出了鲜艳的天竺葵,低处还有几朵像糖块一样的蟹爪兰垂在花盆边缘。每一朵花单独看都很漂亮,但这种人工拼凑在一起的组合,总让人觉得有些不自然,不够完美。不过,它毕竟还是为病房增添了一份热闹和艳丽。那些失眠的夜晚,因为有了这些花,似乎也变得短暂了许多。在失眠的夜里,我想了很多事情,也想起了去探望病重的N老师的情景。那天,我在江户川大曲的花店买了一盆秋海棠,小心翼翼地捧着它,没有坐车,一路走到了早稻田。当时我那已经不太好的胃,那天格外难受,像被什么东西紧紧揪住一样。现在想来,那时我的胃可能已经开始一点点出血了。我当时为了省一点车费,忍着痛苦走了那么远的路。老师病重,我没能见到他,但我带去的花被他的夫人送到了病床前。夫人后来从病房出来,对我说:“老师说花很漂亮。”这也许是我从老师那里间接得到的最后一句话了。现在,我因为和老师同样的病住进了医院,幸运的是,这次我似乎没有什么危险。在同一个季节里,患着同样的病,看着同样的秋海棠花放在枕边,这看似偶然,但仔细想想,又觉得其中似乎有一种必然的因果关系。很多看似偶然的巧合,实际上可能并非如此。老师和学生之间的共同点,无论是精神上的还是肉体上的,都可能会相互影响。也许正是因为肉体上的共同点,才导致了精神上的共鸣,从而在两个人之间产生了师徒的缘分。如果是这样的话,老师和学生患同样病的概率,可能会比两个毫无关系的人要高。同样的病在同一个季节里可能会更加严重,这似乎也是有可能的。我常常这样思考着,觉得这些想法似乎很有道理。

出院的时候,兰花已经完全枯萎,只剩下叶子了。一品红也只剩下顶部的红叶,像鸟毛一样孤零零地立着。仙客来也大多凋谢了。只有三盆秋海棠虽然颜色有些暗淡,但仍然绽放着。我本来打算把它们都带回家,但那天不巧下雨了,而且搬运的手推车没有雨篷,所以我只好把花盆都留下了。我拜托护士帮忙处理,她笑着说会收下,这让我放心了不少。只有O君送的那盆组合盆栽,因为花还很鲜艳,妻子舍不得,就把它放在膝盖上带回家了。一开始,我们把它放在客厅里,后来就把它放在了走廊外的花盆架上,让它每晚都经受着霜的侵袭。现在,秋海棠已经完全枯萎,茎像折断的筷子一样;蟹爪兰的花和叶子都变得黏糊糊的,白白地贴在花盆上;只有文竹那像纱巾一样的叶子,还有一部分仍然保持着深绿色,挺立着。

在住院的三个多星期里,我周围和内心都发生了很多事情。我读了很多书,想了很多问题。很多人来看望我,给我的内心投下了各种光影。不过,我不想把这些事情都记录下来。现在,我只想写下这些为病房增添生机的花朵。写下这些,我仿佛觉得自己住院期间的生活都浓缩在了这些花里。这份在别人看来平淡无奇的记录,对我来说,却像是一本珍贵的回忆录,记录了我难以忘怀的经历。

(大正九年五月,荒木)

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