厌客 谷崎润太郎
厌客
谷崎润太郎
大约是在寺田寅彦①先生的随笔中,好像读到过一段描写猫尾巴的话:真不知道猫为何要长那样一根尾巴,看似无用之物,人身上没长这种麻烦的玩意儿实为幸事。对于此观点,我却持相反态度,数次想,要是自己也长着这种方便的玩意儿就好了。凡是爱猫之人都知道,猫在听到主人呼唤名字时,如果懒得回应一声"喵",就一言不发,只对你轻轻晃一下尾巴尖儿。猫趴卧在廊缘上,优雅地曲着前爪,表情似睡非睡,迷迷糊糊,正在美美地晒太阳,这时,你不妨唤
①寺田寅彦(1878-1935),日本随笔作家、地球物理学家、画家。夏目漱石名著《三四郎》的主人公原型。
它的名字试试,假如是人,他估计会理直气壮地应付你,嚷嚷着"吵死啦!亏得我好梦刚做到一半",要不然就假装睡着。而猫一定会采取折中的办法,用尾巴来回应。这样的话,身体的其他部位几乎不用动弹﹣﹣虽然这时耳朵也会随声而动,灵敏地竖起来,不过我们暂且不提耳朵﹣﹣它一点儿也没睁大微眯的眼睛,就维持着原来的姿势,寂然不动,依然迷迷糊糊的,只有尾巴尖儿微微地摇晃一两下给你看,拨楞!你再唤一次,又是拨楞地晃晃。如果你一个劲儿地唤个不停,最后它会再不理你,不过两三次后它还是会用这种方法来回应你。人们看到尾巴摇动,就知道猫还没有睡着。可能有时候,猫自己也已经半人梦乡了,只有尾巴反射性地晃了晃。不管怎样,这种用尾巴回应的方法传递了一种微妙的信号:我懒得说话,可是理都不理又未免显得太冷漠,就姑且用这种方式打个招呼吧。又或者说:很高兴你招呼我,不过我眼下困得要命,还请原谅。就像这样,猫通过简单的动作,巧妙地表露了一种既狡猾又周全的小心思,而没有尾巴的人类遇上这种场景,可实在是模仿不来这份机智。虽说猫到底有没有这么细腻的心思还是个问题,但看那尾巴的动作,怎么想都让人觉得它就是在表达这个意思。
我为什么说起这件事呢?我不知道别人如何,但实际上,我自己常常在想,要是有根尾巴就好了,因此总是对猫油然升起一种羡慕之情。比如正当我坐在书桌前写作时,又或者正在思考问题时,家人会突然进来,絮絮叨叨地说些有的没的。这时,我但凡有一根尾巴,只要轻轻晃个两三下尾巴尖儿,就可以无所顾虑,继续写我的文章也好,思考我的问题也好。而比这还要痛切地让我感到尾巴之必要的时刻,是被迫招待访客的时候。厌客的我,除了偶尔见见志趣相投的伙伴和我所敬爱的朋友们以外,很少主动与人会面。因为在大多数情况下,我见人总是不情不愿的,所以除非有事相谈,否则一旦对方开始漫无边际地闲聊,过个十分钟十五分钟我就受不了了。这么一来,自然就形成了我当听众、独自侃侃而谈的局面,我的心逐渐放任自流,远远脱离了谈话的主题,朝着不可预料的方向而去,完全置客人于不顾,追逐恣意的幻想,或飞向就在刚刚我所创作的文章中的世界。这样一来,刚开始我还会时不时地接一句"是啊""是吗",可渐渐地,就连这样的回答也开始变得力不从心,前言不搭后语,免不了断断续续,或者跟不上趟儿。有时猛然意识到这样太过失礼,试图收收心认真以待,可就是这种努力也不能持续,过不多时,我又心猿意马了。每当这时,我的屁股就变得痒痒的,幻想自己生出一根尾巴来。有时候我还会停下"是啊""是吗"的附和,代之以摇晃想象中的尾巴,仅仅以此对付过去。遗憾的是,想象的尾巴和猫的尾巴不同,对方是看不到的。可即使这样,在我自己心中,摇不猛这根尾巴多少都是有区别的。就算不为对方所知,我仍然打算通过摇动这根想象的尾巴来做出我的回应。
那么,我究竟从何时起变成了这样一个懒于跟人交谈的厌客之人,甚至羡慕起猫的尾巴来了呢?我试着分析个中原因,可是想来想去,自己也不太明白。辰野隆等老朋友都知道,从中学起,一直到读一高①和大学的这段时间里,我绝不像现在这样沉默寡言。辰野是公认的座谈会上的雄辩家,我的口才也绝不逊色于他。我擅长以东京人特有的辩才四两拨千斤,几句话说得令听者如醉如痴、晕头转向。我说话妙语频出,幽默诙谐也绝不落人后。这样的我逐渐变得不爱说话,是在开始写东西以后。到底是因为寡言所以厌客,还是因为厌客所以寡言呢?我想,多半还是厌客在前﹣﹣换句话说,也就是厌恶社交在前。那开始写作后的我为何就要厌恶社交呢?这其中虽有种种缘故,但主要原因还在我身上,我作为一个混迹日本桥商业街投机家的儿子被养大,有一股子特殊的心气,看不惯当时那些所谓文学艺术家们身上散发的乡巴佬儿气息。虽然在他们之中也不乏那种难得活明白了的东京人,但以早稻田派的自然主义一帮人为首,大多还是农
①旧制第一高等学校。
村出身,所以他们周身散发的气息无论如何都带着一种土味儿。就连我也多少受其影响,曾经留一头蓬乱的长发,穿一身脏兮兮的衣衫,但我很快便心生厌恶,从那以后便努力把自己打扮得看上去不像个文人。穿西服时,要么搭配整整齐挤的一身,要么黑色上衣加条纹裤子,再不然就穿晨礼服,帽子多数时候是圆顶常礼帽。而穿和服时,则是一身结城茧烟或大岛绵绸罩上无花纹的外褂,总是一丝不苟地束紧腰带,一副市民行头,外表看上去就像某个商家的少爷。我这么做引起了小山内君等一些人的反感,说我摆什么大架子,令人讨厌,如此一来,我也渐渐与过去的朋友们疏远了。讨跃乡已佬儿气的我,自然也讨厌书生气,所以只要对方没有让我认为值得一叙,我是不会去加入什么文学理论、艺术理的论战的。我还秉持一个信念,那就是从事文学的人不应该结成朋党,而应尽量保持孤立。这一信念我至今略无动据。我之所以敬慕永并荷风先生,就是因为先生身体力行地[糊了这种孤立主义,没有一个文人能如先生这一主义一以贯之。
就这么着,起初我只是厌恶社交,却并没有打算沉默寡言。与人打交道的次数减少了,自然开口说话的机会也就少了,但是只要让我说,我依然能滔滔不绝,我生来就一副伶牙俐齿,再加上一口轻快流利的江户话,只要我高兴,随时都能发挥自如。事实上,刚开始的确是这样,然而什么东西都是一样,一旦使用次数减少就会导致机能退化,不知何时起,我真的变得笨嘴拙舌了,即使想再像往日那样侃侃而谈也办不到了。这样一来,我更加丧失了说话的兴趣。如今我六十三岁,讨厌社交和沉默寡言的毛病越来越严重,连自己都有些受不了自己了。在沉默寡言这一点上,吉井勇或许比我更胜一筹,不过吉井勇就算这样不说话也并不是讨厌社交,他的话是少,却总是笑眯眯的,惹人喜爱。而我只要有一点儿不满就立刻写在脸上,无聊起来,还会当着人的面打哈欠,什么事都能做得出来。可我一旦醉酒,还是想的,然而我想说的时候试着说上那么几句,却怎么也不能像从前那样滔滔不绝了,最多是变得比平时唠叨,声音比平时更大罢了。所以对于今日的我,日常生活中最痛苦的莫过于有客来访。但凡痛苦得有意义,倒也不是不能忍耐,但是如上所述,以孤立主义为信条的我,脑子里想的却是,要是能只在我想会面的时候,只见想见的人,控制在令我满意的时间里就好了,其他的人能不见则不见。所以不得不说,访问我这种人真是件令人头疼的事。然而尽管如此,我的访客依然很多。战时我被疏散到乡下,暂时得以从这一困境中解脱,可自从我定居京都,客人便一天天地如雨后春笋般冒出来了。
再说,近来渐渐步入高龄,我更有理由来强化我那长以来奉行的孤立主义了。为什么这么说呢?因为我不管怎年厌恶交际,六十多年来也积累了相当多的朋友,即使如现 E 般缩减社交,我的交际圈子也还是比年轻时要大得多。年时代或许有必要尽可能地去多交一个朋友,多见一点儿世面,而对于现在的我,还不知道往后有多少日子可活,有生之年想要完成的工作,基本上已经确定下来了。考虑到我预想的工作量实在是没可能在活着的期间完成,我只能是倾尽余生,按照预定的计划,孜孜不倦地一点一点努力去完成。我的全部精力付诸于此,几乎没有必要再去结交朋友、见识世面。我对别人的期待,一言以蔽之,只剩下了:不要来打搅我,不要打乱我的计划。当然,这样说会让我听上去像个勤勉之人,仿佛一天到晚都只是在埋头工作,不愿浪费一寸光阴,可实际上完全相反,我从年轻时候起,笔头上就比一般人迟笨,老来更添种种身体上的毛病﹣﹣如肩膀酸疼、眼睛疲劳、手腕神经痛﹣﹣致使我的笨笔头越来越严重,只是写一张稿纸的量,中间也必须到院子里散散步或在客厅里转一圈,要是没一点儿小插曲,我就坚持不下来。因此即使我宣称自己正在工作,但真正执笔的时间也非常少,而优哉游哉的时间却尤其多。就是说,一天之中,我能万事俱备、又
思泉涌的时候少之又少,相应地只要受到干扰就是雪上加霜。有的人会说,只求占您三五分钟见上一面,可我一旦为了这三分钟或者五分钟而打断思路,之后再回到书斋便无法立刻进人状态,一晃神就白白流失掉了三四十分钟,有时候甚至根本就写不下去了。因此,我受干扰的时间和接待访客的时间长短根本没有多大关系。有鉴于此,最近我在尽量缩小交际范围,至少不能再扩大现有的范围,也尽量不去结交新的朋友。过去我虽说厌恶社交,但美人是例外,无论是给我介绍美人,还是美人前来到访,都不受此限制。然而现如今就连美人也不能让我上心了。现在连这些我也都不再看重了。我对美人的喜爱之情倒是延续至今,变成这样只是因为我上了年纪以后,欣赏美人的口味也变得越发挑剔起来。一般的美人,尤其今日跻身顶尖行列的美人,在我眼里一点儿也看不出美来,相反地,只能引起我的反感。我在心中严格执行自己对佳人的标准,能达到这一标准的人简直是寥若晨,故而我也不指望我心目中的佳人能随随便便就现身。倒不如说,我只要能与迄今结识的几位佳人继续保持联系,便心满意足了,能做到这一点,我的老年生活便足够花团锦簇,也不再渴望更多的刺激了。
拒绝来访者的办法五花八门,最常用的是假装不在家。对于负责传话的小姑娘来说,比起一番麻烦的说辞,还是直接说"主人现在不在家"最为省事。但我不喜欢采用这种方式,于是告诫家里人,至少要用客气的口吻向客人表达出"主人虽然在家,但是没有介绍信不予接待"的意思,对客人开诚布公。这是因为我这个人最讨厌为了客人而撒谎﹣-若是住在小房子里,为了撒谎,便不能上厕所,不能打饱嗝儿,也不能打喷嚏,而且如果不明明白白地表示即使在家也不见客,那么客人三番五次地登门,值此交通不便的时节,这种做法也会给客人造成诸多麻烦。只不过,男佣去接待还好办,碰到女佣当班,就会添加一些不必要的关怀,画蛇添足地说几句"真是不巧,眼下正有事要忙"之类的托词,反而模糊了重点。虽然我也告诉她们:"什么?对方生气也没关系,你要再说得明白点!"但是有的客人会气冲冲地追问,不肯善罢甘休,这时候女佣便往往不能干脆利索地执行。事情至此我也绝不回应,于是免不了以传话的人两头为难而告终。虽说面对来自东京或者其他远道而来的客人会不忍拒绝,但我依然坚决执行没有介绍信概不面见的铁则,因为大家都知道我有这个规矩对以后有好处。其中有些来客,搬出我朋友的名字,说与某某先生很有交情,或是说某某先生曾答应要给写介绍信的。"既然如此还是麻烦你请某某君开一封介绍信再来吧。"通常这么一说,那人就从此不来了。真正带着介绍信的来客当然要见,不过我的朋友们也很能体谅我,几乎不会将那些麻烦的客人送过来。
我不知道东京如何,反正住在京都,被邀请参加餐会的事也非常之多。开座谈会我能理解,可并非如,只是被邀去吃吃喝喝也不下数次。然而,只要是出席人多的集会,就自然而然会通过交换名片攀谈起来,仅仅这一点就让我头疼不已,何况我一个老年人对食物也像对美人一样挑挑剔剔苛刻得很,被请吃饭对我而言绝不是什么值得高兴的好事。尤其是战争以来,想要吃一顿过去那样的饭菜,必须由头面人物带领,还要砸一笔大钱。正因这种事情不是我们普通百姓能办到的,招待的一方必认为自己施予了极大的恩惠,或者也有借我们的由头来给自己改善伙食、补充营养的考虑在里边吧。这么说来,最近好像正在流行这种专门以"补充营养"为目的而拼凑出的奇奇怪怪的大餐。去年赴东京时,我应邀去一家偏僻的餐馆吃饭,端上来的有金枪鱼刺身、牛扒、天妇罗、炸肉排等菜品。还有一次到某乡下旅馆,晚上吃的是海鳗锅子,分量多得惊人。第二天又从一大早开始给我们吃寿喜锅。我原以为只有郊外或乡下如此,没想到连京都市区中心的旅馆之类的也让人吃这种大餐,说不上是日本菜还是中国菜抑或是西餐的菜品组合在一起,这种配餐方式,可以说是把我们当作平常只能吃配给食品的人种,逢此机会只要一个劲儿给我们补充营养就好了。就是这样一种,把用餐的礼仪等全都无视,把人当猴耍的低劣配餐。我虽上了年纪,但胃口却相当好,上的菜只要不是无法下咽,就会吃个精光。但我总是在吃饱以后,才反应过来自己把什么乱七八糟的食物都塞进了肚子里,开始羞愧难当。而且最气人的是,当天狼吞虎咽做的孽,导致之后两三天都食欲不振,本打算请家人专门为自己做些爱吃的,在自家愉快享用晚餐,也因此而泡汤了。营养过剩的高脂肪菜肴对一个老头子的身体百害而无一利,相比之下,我喜欢的是那种使用精心酿制的大酱或酱油做出的合口的家常菜,而且现如今,比起街上常见的小饭馆,还是自家的食材吃着让人放心,像油炸食品之类,我只吃自己家里使用纯净的食用油做成的。总而言之,我对于餐会的态度也是,只有我喜欢的人在场,只摆出我喜欢的菜肴,只在不影响我工作的时间进行,这样我才有参加的意愿。不过说实话,就算是这样我也绝不会兴味盎然。
客ぎらい
谷崎潤一郎
○
たしか寺田寅彦氏の随筆に、猫のしっぽのことを書いたものがあって、猫にあゝ云うしっぽがあるのは何の用をなすのか分らない、全くあれは無用の長物のように見える、人間の体にあんな邪魔物が附いていないのは仕合せだ、と云うようなことが書いてあるのを読んだことがあるが、私はそれと反対で、自分にもあゝ云う便利なものがあったならば、と思うことがしば/\である。
猫好きの人は誰でも知っているように、猫は飼主から名を呼ばれた時、ニャアと啼いて返事をするのが億劫おっくうであると、黙って、ちょっと尻尾の端を振って見せるのである。
凡是爱猫之人都知道,猫在听到主人呼唤名字时,如果懒得回应一声"喵",就一言不发,只对你轻轻晃一下尾巴尖儿。
縁側などにうずくまって、前脚を行儀よく折り曲げ、眠るが如く眠らざるが如き表情をして、うつら/\と日向ぼっこを楽しんでいる時などに、試みに名を呼んで見給え、人間ならば、えゝうるさい、人が折角好い気持にとろ/\としかゝったところをと、さも大儀そうな生返事をするか、でなければ狸寝たぬきね入りをするのであるが、猫は必ずその中間の方法を取り、尾を以て返事をする。
それが、体の他の部分は殆ど動かさず、―――同時に耳をピクリとさせて声のした方へ振り向けるけれども、耳のことは暫く措おく。
―――半眼に閉じた眼を纔わずかに開けることさえもせず、寂然たるもとの姿勢のまゝ、依然としてうつら/\しながら、尻尾の末端の方だけを微かに一二回、ブルン!
と振って見せるのである。もう一度呼ぶと、又ブルン! と振る。執拗しつこく呼ぶとしまいには答えなくなるが、二三度はこの方法で答えることは確かである。人はその尾が動くのを見て、猫がまだ眠っていないことを知るのであるが、事に依ると猫自身はもう半分眠っていて、尾だけが反射的に動いているのかも知れない。何にしてもその尾を以てする返事の仕方には一種微妙な表現が籠っていて、声を出すのは面倒だけれども黙っているのもあまり無愛想であるから、ちょっとこんな方法で挨拶して置こう、と云ったような、そして又、呼んでくれるのは有難いが実は己は今眠いんだから堪忍してくれないかな、と云ったような、横着なような如才ないような複雑な気持が、その簡単な動作に依っていとも巧みに示されるのであるが、尾を持たない人間には、こんな場合にとてもこんな器用な真似は出来ない。猫にそう云う繊細な心理作用があるものかどうか疑問だけれども、あの尻尾の運動を見ると、どうしてもそう云う表現をしているように思えるのである。
○
私が何でこんなことを云い出したかと云うと、他人は知らず、私は実にしば/\自分にも尻尾があったらなあと思い、猫を羨しく感ずる場合に打ぶつかるからである。たとえば机に向って筆を執っている最中、又は思索している時などに、突然家人が這入はいって来てこま/\した用事を訴える。と、私は尻尾がありさえしたら、ちょっと二三回端の方を振って置いて、構わず執筆を続けるなり思索に耽るなりするであろう。それより一層痛切に尾の必要を感ずるのは、訪客の相手をさせられる時である。客嫌いの私はよほど気の合った同士とか、敬愛している友達とかに久振で会うような場合を除いて、めったに自分の方から喜んで人に面接することはなく、大概いつもいや/\会うのであるから、用談の時は別として、漫然たる雑談の相手をしていると、十分か十五分もすれば溜らなく飽きて来る。で、自然此方は聞き役になって客が一人でしゃべることになり、私の心はともすると遠く談話の主題から離れてあらぬ方へ憧れて行き、客を全く置き去りにして勝手気儘な空想を追いかけたり、ついさっき迄書いていた創作の世界へ飛んで行ったりする。従って、ときどき「はい」とか「ふん」とか受け答えはしているものの、それがだん/\上の空になり、とんちんかんになり、間が空き過ぎたりすることを免れない。時にはハッとして礼を失していたことに心づき、気を引き締めて見るのであるが、その努力も長続きがせず、やゝもすれば直ぐまた遊離しようとする。そう云う時に私は恰も自分が尻尾を生やしているかの如く想像し、尻がむず痒くなるのである。そして、「はい」とか「ふん」とか云う代りに、想像の尻尾を振り、それだけで済まして置くこともある。猫の尻尾と違って想像の尻尾は相手の人に見て貰えないのが残念であるが、それでも自分の心持では、これを振ると振らないではいくらか違う。相手の人には分らないでも、自分ではこれを振ることに依って受け答だけはしているつもりなのである。
○
さて、ぜんたい私はいつから斯様に、―――猫の尻尾を羨んだりすること程左様に、―――人と物を言うのが億劫になり、客嫌いになったのであるか、そしてそれには何か原因があったのであるか、と考えて見るのに、どうも自分でもはっきり分らないのである。辰野隆のような舊い友達は皆知っていることであるが、中学から一高、大学時代頃までの私は決して今のような黙りやではなかった。辰野は人も知る座談の雄であるが、私も彼に劣らないくらい話上手で、東京人特有の軽快なる弁舌を以て人を酔わせたり煙に巻いたりすることが得意であったし、警句を発し、諧謔を弄することも敢て人後に落ちはしなかった。それがだん/\無口になったのは、物を書き始めてからであるが、無口になったために客嫌いになったのか、客嫌いになったために無口になったのかと言うと、多分客嫌い、―――云い換えれば交際嫌い、―――の方が先であったのだと思う。創作家になったためになぜ交際嫌いになったのかと云うと、これにはいろ/\理由があるのだが、日本橋の下町に相場師の忰として育った私は妙な気取を持っていて、当時の文士藝術家と云われる人々の醸し出す田舎者臭い空気が嫌いであった。彼等の中にも稀に生え抜きの東京人がいなくはなかったが、早稲田派の自然主義の人々を始めとして、概して田舎者が多かったから、その醸し出す空気はどうしても田舎臭かった。私もちょっとはその感化を受けて、髪をぼう/\と伸ばして見たり、むさくるしい服装をして見たりしたが、間もなくそれが厭わしくなって、以後は努めて文士臭く見えないような身なりをした。洋服の時はキチンとした背廣か、黒の上衣に縞ズボンか、でなければモーニング、帽子は山高帽を最も多く被ったが、和服の時は結城紬ゆうきつむぎか大嶋に無地の羽織を着、いつも角帯をキリリと締めた町人いでたちで、一見商店の若旦那と云う恰好をしていた。そんなことが小山内君あたりの反感を買い、大家振っていやあがるなどと云われて憎まれたものだが、そうなると此方もいよ/\昔の仲間から遠ざかってしまった。田舎臭いことが嫌いな私は、自然書生臭いことも嫌いだったので、よほど語るに足ると思う相手でない限り、めったに文学論や藝術論などを闘わすこともしなかった。それと私には、文学者は朋党を作る必要はない、なるべく孤立している方がよいと云う信念があったのであるが、この信念は今も少しも変っていない。私が永井荷風氏を敬慕するのは、氏がこの孤立主義の一貫した実行者であって、氏ほど徹底的にこの主義を押し通している文人はないからである。
○
そんな次第で、最初私は交際嫌いにはなったけれども、無口になったとは思っていなかった。人に接する機会が少いから、従って口を利くことも少いのであるが、しゃべらせればいくらでもしゃべれるのであり、性来の巧妙なる話術、流暢軽快なる江戸弁は、自分がその気になりさえすれば時に応じて発揮し得ると考えていた。事実最初のうちはそうだったのであるが、何事も用いる度数が少くなればだん/\機能が衰えるもので、いつか私はほんとうに話下手になり、昔のようにしゃべってやろうと思ってもしゃべれなくなってしまい、そうすると又しゃべることに興味も持たなくなってしまった。かくて六十三歳の今日では、交際嫌いと無口の癖がいよ/\ひどくなって来て、自分でも折々持て餘すくらいになったのである。無口と云う点では吉井勇の方が或は上かも知れないが、吉井はそう云っても交際嫌いではなく、口数は少くても絶えずニコ/\していて愛嬌があるが、私は気に入らないと直ぐにそれを顔に出し、退屈すれば人前であくびでも何でもする。たゞ酒に酔うといくらかおしゃべりがしたくなるが、でもしゃべり出して見ると、到底昔のように滾々こんこんとは言葉が湧いて来ないので、結局平素より多少饒舌になり、声の調子が高くなると云う程度にしかなれない。されば現在の私に取って、日常生活の中で何が一番辛いことかと云えば、訪客の相手をすることなのである。辛くても意義のあることなら堪え忍ばなくてはならないが、前述の如く孤立主義を信条としている私は、会いたい時に、会いたい人に、此方が満足する時間だけ会えたらよい、その他の人には出来るだけ会わない方がよい、と云う考えなのであるから、かような男を訪問する人は気の毒であると云わなければならない。しかしそれにも拘らず、訪客はかなり沢山ある。戦争中、田舎に疎開していた頃は暫くその難を逃れていたが、京都に家を構えてからは、一日々々と客が殖えるばかりなのである。
○
それに私は、近頃老齢に達するにつれて、一層年来の孤立主義を強化してもよい理由を持つようになった。なぜかと云うと、いくら私が交際嫌いであるからと云って、六十何年の間には相当に知人が殖えており、若い時代に比べれば、既に現在でも交際の範囲が非常に廣くなっているのである。若い時代には一人でも多くの人を知り、少しでも多くの世間を覗く必要があるかも知れないが、私の場合は、この先何年生きられるものかも分らないし、大体生きている間にして置こうと思う仕事は、ほゞ豫定が出来ているのである。その仕事の量を考えると、なか/\生きている間には片付きそうもないくらいあるので、私としては自分の餘生を傾けて、それをぽつ/\豫定表に従って片端から成し遂げて行くことが精一杯で、もうこれ以上人を知ったり世間を覗いたりする必要は殆どない。他人に対して願うところはたゞ少しでも豫定の実行を狂わせたり、邪魔したりしてくれないように、と云うことに尽きる。尤もこう云うと、さも勉強家のように聞え、寸陰を惜しんで始終仕事に熱中しているように聞えるかも知れないが、実際はそれの反対で、若い時から人並外れた遅筆家であった私は、老来種々なる生理的障害―――たとえば肩が凝るとか、眼が疲れるとか、神経痛で腕が痛むとか云ったような、―――が加わるに及んで、いよ/\その習性がひどくなり、原稿用紙一枚書くのにも、間で庭を散歩するとか座敷を歩き廻るとか云う合の手を入れなければ、根気が続かない有様なので、仕事中と云っても正味執筆している時間は割合に少く、ぼんやり休養している時間の方が遙かに多い。つまり、一日のうちで諸条件の備わった、順潮にすら/\筆が動いている時間はほんの僅かしかないのであるから、それだけになお邪魔が這入ると被害が大きいことになる。ほんの五分か三分でよいからお目に懸りたい、などと云って来る人があるが、その三分か五分のために折角の感興が中断されると、再び書斎に戻って行っても直ぐには油が乗って来ないので、三十分や四十分は忽ち空に消えてしまい、どうかすればそれきり書けないでしまうことがあるから、邪魔される分には時間の長い短いは大して関係がないのである。そこで、昨今の私は出来るだけ交際の範囲をちゞめ、せめてその範囲を現在以上に廣げないようにし、新しい知人をなるべく作らないようにしている。昔は交際嫌いと云っても美人だけは例外で、美しい人に紹介されたり訪ねて来られたりすることは、この限りではなかったのであるが、今はそれさえもあまり有難いとは思わない。と云うのは、今日でも美人が好きであることに変りはないのだけれども、年を取ってからは美人に対する注文が大変面倒になって来ているので、普通の美人と云うものは、殊に今日の尖端的タイプに属する美人と云うものは、私には少しも美人とは映らず、却って悪感を催すに過ぎない。私は私でひそかに佳人の標準を極めているのであるが、それに当て篏まる人と云うものは寔まことに暁天の星の如くであるから、そんなものが無闇に出現しようとは思ってもいない。むしろ私は今日までに知ることを得た何人かの佳人との間に、今後も交際をつゞけて行かれれば満足であり、老後の私の人生はそれで十分花やかであって、それ以上の刺戟は欲しくないのである。
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訪客を断るにはいろ/\の手があるが、最も普通に用いられるのは居留守を使うことであろう。取次に出る女子供に取っては、面倒な言訳をするより「只今主人は留守です」と云ってしまうのが一番簡単だからであろうが、私はこの手を用いるのが嫌いなので、家の者を警めて、「主人は在宅しておりますけれども、紹介状を持たない方にはお目に懸らないことにしております」という意味を、せい/″\慇懃いんぎんな言葉を以て、客に徹底させるようにしている。それは何よりも、客のためにウソを吐つくことが癪だからであるが、―――狭い家だとウソを吐いたために便所へも行けず、シャックリやクシャミも出来ないのである。―――居ても会わないのだと云うことをはっきりさせて置かないと、二度も三度も訪ねて来るようなことになって、交通難の折柄、客にもいよ/\迷惑を掛けるからである。しかし書生だとよいが、女が出ると、つい云わないでもよいおあいそを云い、それに只今は生憎忙しゅうございまして、とか何とか餘計な文句を附け加えて意味をボカスようなことがありがちである。ナニ、怒っても構わないからもっとはっきり云いなさいと云うのだけれども、客に依っては腹を立てて詰問したり、執拗に食い下ったりする人があるので、女ではとかくそこのところがきっぱり行かない。それでも私は頑として応じないので、取次の者が板挟みになって困ることは始終である。東京その他遠隔の地から来た人の場合、断るのは忍びないけれども、やはり紹介状のない人には会わないと云う鉄則を厳重に押し通していると云うのは、それが評判になってくれた方が、結局後のためによいからである。中には私の知人の名を挙げ、何々先生とは御懇意に願っておりまして、とか、何々先生が紹介状を書いて上げようと仰っしゃったんですが、とか云う人があるが、それなら面倒でももう一度出直して何々君に紹介状を貰って来て下さい、と云うと、そう云う人はそれっきり来ないのが普通である。ほんとうに紹介状を持って来た人には勿論会うが、私の友人たちはそこは心得ていてくれて、煩わしい客を差向けて寄越すようなことはめったにない。
○
東京はどうか知らないが、京都にいると、飲み食いの会に招かれることも非常に多い。座談会なら分っているが、そうでなく、たゞ飲み食いだけに招かれることもしば/\ある。だが、多人数の集合する席へ出れば、自然名刺の交換などから知人が殖えて行くことになるので、それだけでも大概迷惑である上に、老人は食物についても美人と同様いろ/\むずかしい注文があるので、御馳走になると云うことは決してそんなに有難いことではないのである。尤も戦争から此方、昔のような料理を食べるにはその方面に特別顔の利く人に連れて行って貰い、しかも大金を投じなければならず、なか/\われ/\普通人には企て及ばない事情があるので、招く方では大いに恩恵を施してくれるつもりなのであろうし、またわれ/\を出しに使って自分達が滋養分を摂取しようと云う考えもあるのであろう。そう云えば近頃は、専らこの「滋養分を取らせる」と云うことを目的にした、不思議な取合せの料理が流行はやるようである。去年東京へ行った時、或る場末の料理屋へ招かれたら鮪の刺身が出て、ビフテキが出て、天ぷらが出て、カツレツが出たことがあった。また或る田舎の旅館では晩に鱧はものちり鍋が驚くほど多量に出て、翌日は朝から肉のスキ焼が出た。場末や田舎だけかと思ったら、京都の街のまん中の旅館(?)などでもそう云う料理を食べさせられたことがあったが、日本料理とも中華料理とも洋食とも何とも分らない取合せで、つまりわれ/\を平素配給物ばかり食べている人種と見、こんな機会にうんと栄養を取らしてやりさえすればよいのだ、と云うような列ならべ方かたで、料理の作法も何も無視した、およそ人を馬鹿にした、さもしい料理なのである。私は年齢のわりに健啖の方であるから、出されればよほどまずいものでない限り、片端から平げてしまうのであるが、いつも腹が一杯になってから、何だか下らなくいろ/\なものを胃の腑へ詰め込んだような気がして浅ましくなる。そして何より腹が立つのは、その日の牛飲馬食が祟ってそれから二三日食慾が減退し、折角家人の手料理で自分の好きなものを作って貰い、自宅でゆっくり夕餉ゆうげを楽しもうと思っていたことが、ふいにさせられるのである。老人の身には栄養過多の油っこい料理は有害で、そんなものよりはよく吟味した味噌醤油等を使って、自分の好みに適うように作られた家庭料理の方が嬉しいのであり、また実際に、昨今では普通の街の料理屋よりは自宅の材料の方が安心なので、揚げ物などは自分の家で交りけのない食用油を使ったものでないと、うっかり食べられもしないのである。これを要するに私は飲み食いの会の方も、自分の好きな人たちだけの集まりで、好きな料理が出て、自分の仕事の邪魔にならない時にだけ、出席することにしたいと思うのではあるが、実はそれさえも決してそんなに気が進んではいないのである。
(昭和二十三年七月記)
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